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『モノ言う中国人』西本 紫乃(集英社)

モノ言う中国人 →紀伊國屋書店で購入

「中国のインターネット言論についての優れた入門書」

チュニジアやエジプトでの動乱で、ツイッターフェイスブックによるネットワーキングが大きな機能を果たしたことはよく指摘されている。しかしむろん、こうしたツールがあればすぐ「革命」が起きる訳ではない。
中国が、これらの国の旧体制やや共通する点のある、強権的な政治手法を用いていること、また積極的にネット言論を統制・検閲していることはよく知られている。

本書は、中国のメディアとコミュニケーションを専門とする研究者でもある著者が、一般向けに分かりやすくその歴史と現状を概観した本である。
2000年代後半頃から次々と発生した、ネットを舞台にした事件の具体的な事例が豊富に集められていること、また中国語による中国での議論が豊富に紹介されていることが、大きな強みとなっている。 中国のインターネットについては、日本でも注目が高まっており、取り扱う書物の出版も増えている。本書は、著者がこの話題の専門家ということもあり、現在までの類書をしのぐ質を備えていると言える。
著者は豊富な中国での滞在経験を持つ。大学時代の留学と中国系企業への勤務、退職後に広島大学大学院に進み、博士課程在籍中に北京の日本大使館で専門調査員として勤務と、合計して10年以上中国に滞在したという。

まず本書冒頭に紹介されているのは、昨年発生した「おれの親父は李剛だ」という有名な事件である。河北大学構内で飲酒運転の車が女子学生二人をはねて死亡させた。李剛とは地元警察のナンバー2の名であり、運転手の青年が、車を取り囲んだ学生や警備員にこのセリフを吐いたとされる。人気掲示板の一つ「天涯社区」で大きく話題になったことから、反発が拡大し、このセリフは一種のネット流行語にまでなった(11)。
この事件に留まらず、権力者の腐敗や汚職、幹部子弟の犯罪もみ消しなどが、まずインターネット上の掲示板などへの投稿から話題になり、その後再捜査が進んで犯人が処罰される、というような事件が近年相次いでいる。

著者は、こうした動きを言い表す時、中国語で多用される「話語権」という概念を紹介する。そこには、「発言権」や「言論の自由」とは異なるニュアンスがあり、公的な場における「モノ申す権利」とでも訳すべきものであるという。
これまでそれは、国レベルでは共産党中央、日常レベルでは職場における上司・共産党員資格を持っている人など――「主流」――に独占されてきた。ところがインターネットの登場以後、中央の方針としても、多様な(これまで弱い立場とされてきた)人々に「話語権」が必要だという議論もあり、他方で旧来のように中央が「話語権」を掌握することが重要だという議論も強まっている。いろいろな形で「話語権」が話題になっている(18)。

代表的な議論として、中国の体制内の大手メディアで要職を歴任した、改革派の大物の一人・周瑞金が発表した「『新意見階層』の台頭を喜ばしく思う」という論文(2009)がある。
そこで周は、インターネットに現れるようになった民意の発露を、政治改革の進展や中国社会の発展のために有効活用すべきだと説いた。

この「話語権」、「新意見階層」という概念の重要性は、中国の伝統的な為政者と民との関係を振り返らないと分からない(これをまったく無視して「言論の自由」がないと批判するのも非生産的であると著者は言う)。
中国では、権力者に対して異議申し立てを行うのは、大衆というより、読書人・「知識人」の特権の一部であるとみなされてきた。そうした「知識人」の現代版がたとえば、日本でも話題になる発禁書の著者である学者や作家たちであろう(劉暁波もそこに含まれると著者は言う)。
こうした「知識人」たちの活動に関わるのが「言論の自由」という概念であるとするならば、現在のインターネット上での出来事は、それに留まらない市井の人々によるもので、やや意味が異なる。これを踏まえ著者は、「話語権」とは「中国的概念の範囲内の人民の権利の一つ」(33)なのであると定義する。 これまでは単に「非主流」とされてきた、多様な属性の人たちが、インターネットを利用して意見表明ができるようになった。ある意味でこれは、清国末~民国期に存在していたが、新中国建国後にはほぼ消滅していった、サロンとしての茶館に類似している(40)。

続けて著者は、新中国の既存のマスメディアとは、そもそも階級闘争史観のもとで「党と人民の喉と舌」として、抗日戦争や国共内戦の最中に大衆の指導と共産主義思想の優位性の宣伝を目的に作られた。
こうした戦時体制下の姿勢は建国後も受け継がれ、そもそも報道の自由などというものは想定されていない(52-3)。現在でも、国レベル、地方レベル、さらに報道機関内部の自主規制なども含め、多様な管理と規制の網の目が張り巡らされている。

ところが、90年代末から、新聞社がメディア・グループへ改編され、市場化と産業化を推進し市場競争による合理化をめざす動きが本格化した。
すると、読者に喜ばれる記事や実用的な記事を増やし、読者をより多く獲得する必要があると同時に、党の指導の道具という性質も期待される、というジレンマが生じる。読者の期待に応え社会的不正義に切り込む記事を載せた新興の「都市報」や雑誌が、中央の方針と軋轢を起こす事件がいくつも発生している。
現在の中国のマスメディアは、「政治の社会主義と経済の市場主義のジレンマ」にはさまれた形となっている(66)。記者と政治家のこうした軋轢の象徴として、2009年のネット流行語となった「党の代弁者か、それとも庶民の代弁者か?」「あなたはどこの単位の人間?」という言葉と、その成立の背景事情も、本書の中に解説されている。

こうしたメディア状況に置かれた、中国のインターネットについて、まず著者はその発展の歴史や、ユーザ数・ユーザ層の変遷などを概観した上で、サイトを三つに分類する:
1)新聞社の運営するニュースサイト、人民網、新華網、中国網、央視網、環球網など
2)総合的な情報を扱う商業サイト、新浪、網易、捜狐、騰訊など
3)「論壇」・「社区」=コミュニティサイト、天涯社区 (100)
それぞれ、中央との距離感や人気において差があり、相互作用しながらネット世論を形成している。

この間に話題となった事件には以下のようなものがある(主なもののみ)。
・2009年1月「インターネット管理室の陳華はどんな共産党員か?」:
 インターネット管理室の幹部職員の横柄な態度(真偽不明)レポートが出回る(85)
・2010年1月「蘭州の悲劇」:
 蘭州市共産党員会・宣伝部長が、インターネット世論の善導のために650人の評論チームを編成したと記者発表、政府の雇われネット世論工作員=「五毛党」の実在を発表したようなもの(93)

・2001年7月、「南丹錫鉱事故」
 ネット世論が初めて影響力を持った事件、鉱山事故の隠ぺいを暴露
・2003年2月、「孫志剛事件」
 地方から来た若者が城管に拘束され、収容所内で殴打され死亡した事件に対する抗議の盛り上がり
・2007年6月、「山西省闇レンガ工場事件」
 知的障害者を含む31人が奴隷労働を強いられていたことへの抗議運動、次第に党幹部や中央の責任を問う声へ。恐れた中央は迅速に関係者を処罰
・2006年4月「許【雨カンムリの下に廷】ATM事件」
 誤作動で大金を引き出した人間が厳罰に、しかし銀行側の責任を問う声が盛り上がる
・2008年1月、「魏文華暴行致死事件」
 コミ捨て場をめぐる騒動で写真を撮っていた地元建築社長が暴行され死亡、城管(露天商取り締まりなどを行う公務員)の過度の取り締まりに抗議
・2008年6月「李樹芬事件」
 女子中学生が川で死亡、遺族は地元警察所長の親戚らによる強姦殺人と主張、警察の発表した容疑者供述は「橋の上で腕立て伏せしていたら彼女が川に飛び込み自殺した」と。納得しない群衆の破壊行動に発展、「腕立て伏せ」がネット流行語に
・2009年7月、大学発表の就職率が多く改ざんされていることが話題になり、「(自分の知らぬ間に)就職させられる」から「~させられる」がネット流行語に

こうした事件を踏まえて著者は、公務員の問題の追及にも限界があると指摘する。
個人名で批判されるのは所詮末端の人間どまりで、国家・省・市レベルのトップなどには至らないからである(146)。
しかし、2007年にネット利用が農村で大きく伸びたように、ネットは農村地区の声を吸い上げ、通常彼らと隔離されている都市住民もそれを共有するという、新しい世論形成システムとなっていると指摘する(129)。

中国ネットの利用者は全体的に若いこともあり、中心はいわゆる「八〇后」である。
成長時にPCとネットがあったためネット・コミュニケーションに慣れており、経済発展の恩恵を最も受け、多く一人っ子で育ち、愛国主義教育の影響を特に受けている、などの特徴があるとされる世代だ(164)。
ではその「愛国」の側面はどうか。本書では、1)旧ユーゴ・中国大使館誤爆事件(1999)、2)小泉靖国参拝(2005)、3)北京五輪時のカルフールボイコット(2008)が比較される。
1では(おそらく党組織の動員を受けた)大学生が中心だった。それが2では、愛国者同盟網や中国民間保釣連合会など、民間グループの活動家がオピニオン・リーダーとなっていた。さらに3では、「アンチCNN」など、無名の民間人のネット発信が抗議行動の中心となった。
これは、中心となる人々が、学生組織→大手民間団体→一般の民間人と、拡散傾向にあることを示している。当局にとってみれば、制御がどんどん難しくなっているということでもある。
1の段階では、抗議の「ボリュームのコントロール」もある程度可能だった。当局の利用可能性もあった。しかしそれが難しくなっており、簡単に興味本位で参加できるものとなっているため、大規模に膨張する可能性も持つようになっている(185-6)。

2010年9月の尖閣諸島沖衝突事件では、地方で抗議運動が発生したものの、北京・上海といった大都市部は平静だった。
これを「官製デモ」とする議論に対し、その可能性は低いと著者は言う。これは、都市部で価値観の多様化が進みかつてのようなプロパガンダが機能していないこと、そしてその人々の関心は、物価・収入・就職など、日常的な問題に移行していることを示す(192-5)。

党と政府も、(形式的な)民主主義の演出、末端の役人の腐敗の早期発見、過激な世論動向のチェックなど、いろいろな側面でネット世論を注視している。
現在のネット世論は、身近な不満の噴出から、政府批判につながっていくことも多い。しかし思考が未成熟なまま激化することが多いのも事実で、それを常に正義と言うことはできない。そうしたネット世論に対し、当局は配慮の姿勢を見せる必要があると同時に、そのコントロールに腐心している状態である(205)。

ここで最も問題なのは、両者がともに想定している前提として、共産党の勝利の歴史、「よくやった史観」があるということである。
この前提のため、若い世代は党と政府に強さや立派さを求めることとなる。それに配慮しようとする政府は、あらゆる国内問題をスピーディに解決することを求められ、外国向けには強硬的にならざるを得ない。
これは共産党が、自らの行ってきた宣伝が国民に波及したがために行動を束縛される――「プロパガンダの虜囚」(S.L.シャーク)となっている――ことを示している(206-7)。
中国が現実に経済発展し、強国と認められつつある今、この物語は役割を終えたはずであり、新たな物語が必要となっている。それはおそらく大衆が決定に参加する過程をより重視するものになるだろう、と著者は言う。

著者の文体は洒脱であり、ここで紹介できなかった事例や視点が他にもふんだんに盛り込まれている。また現在の中国には「ジャスミン革命を中国にも」という掛け声が出てきたりもしているが、その今後を占う際にも、本書がまとめている中国ネット世論の歴史と現状は大変参考になる。現代中国に関心のある方々に、ぜひ手に取って頂きたい一冊である。

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