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『聖なる学問、俗なる人生-中世のイスラーム学者』谷口淳一(山川出版社)

聖なる学問、俗なる人生-中世のイスラーム学者

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 朝、アザーン(礼拝への呼びかけ)で目が覚める。なんだか心地よいひびきで、睡眠を妨げられたことも忘れてしまう。クルアーンコーラン)の朗誦のコンテストもさかんだ。クルアーンアラビア語で、ムハンマドが属していたクライシュ族の方言で統一されている。翻訳することが許されていないので、アラビア語がわからないイスラーム教徒の多くは、意味もわからずに朗誦することになる。そのことに疑問をもつ人が本書を読めば、クルアーンの朗誦には唱えている内容だけではないことがわかる。


 イスラームの活力を支えている「イスラーム学者について、少し考えてみようというのが本書の目的である」。ウラマーと総称されるイスラーム学者は、「たんなる知識人ではなく、「イスラーム諸学を修めた知識人、学者」を意味する」が、研究に勤しむだけでなく、「多くは、国政から庶民の生活にいたるまでさまざまな局面で、イスラームの教えにそって社会を導く役割もはたしている。例えば、イランの最高指導者は高位の学者から選ばれる。その一方で、日常的な問題に対する解決策を示し、庶民から頼りにされているイスラーム学者も各地に大勢いる」。


 そして、現代ではなく、中世の学者をあつかう意味を、著者谷口淳一はつぎのように説明している。「中世のムスリム社会を理解するためには、中世の学者たちがはたした役割を知っておく必要があるのはもちろんだが、現代について考えるさいにも、中世の学者について知っておいて損はない。例えば、社会における学者の役割や行動については、現代と中世のあいだに共通する点をいくつもみつけることができる」。


 本書は、4章からなり、前半の2章で「学問が「聖なる学問」すなわちイスラームという宗教に深くかかわる学問であったことがそれぞれの論点と深く絡み合っていることも示していく」のにたいして、後半の2章では「学者たちの「俗なる人生」をあつかう」。3章までは、「中世東アラブのイスラーム学者という比較的大きなくくりで論じることによって、この時代と地域に共通する特徴をとらえようとし」、「最後の第4章では、シリアの一都市に焦点をあて、特定の地域におけるイスラーム学者たちの役割と行動を時間軸にそってみていく」。

 「いろいろな意味で縁遠い存在」の中世のイスラームから、なにが学べるか。著者は、つぎのように本書を締めくくっている。「自分たちとの違いが目についても不思議ではない」。「しかし、本書のなかには、なるほどと同感できる話もあったのではないだろうか。まったく異なる文化や歴史を背負っていても、どれほど時代が離れていても、どこかに共感しあえる点を見出せるというのが人間のおもしろいところだと思う。異文化の理解とは、自分たちと異なる考え方や行動様式を理解するだけに終わることではなく、異文化のなかに自分たちとの共通点や共有できるものをみつけることでもあるのだ」。


 その共通点の例として、著者は16世紀の中東のアラビア語の読み書きといった初等教育に携わった教師をあげている。かれらを悩ましたのは、「怠惰な生徒、学力不足の生徒、同級生に暴力をふるったりその持ち物を奪ったりする問題児の存在」だった。

 冒頭のクルアーンの朗誦についての話に戻ろう。「クルアーンは朗誦されるべきものなので、一字一句にいたるまで、正しい読み・発音を決めることも重要であった」。正典テキストができても、文字で記録しておけば充分ということではなかった。「クルアーンのテキストを正しく伝えるということは、テキストの正しい読誦の方法を伝えるということ」だった。したがって、「写本が各地に送られたさいには、定められた読誦法を教える人物が一緒に派遣された」。その理由は、「耳で聞いたものは心にしっかり残るうえに、声に出すことによってより注意深く読むようになるからである」。あくまでも「学問上の知識の伝達は口承が基本で、書写テキストは口承を補助する道具にすぎないということになる」。そして、口承するという行為自体が、信仰に直結した。


 キリスト教においても、賛美歌に魅せられて改宗した者がいる。信仰内容だけでなく、その伝えられ方に本質をみる人たちがいる。書写テキストに重きをおく人たちが失ったものを、イスラームクルアーンの朗唱を通じて守り継いでいるということができる。

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