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『中国は東アジアをどう変えるか-21世紀の新地域システム』白石隆、ハウ・カロライン(中公新書)

中国は東アジアをどう変えるか-21世紀の新地域システム

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 中国の台頭にたいして、ひじょうに危機感をもつ必要があるというものと、それほど心配する必要はないとするものが、入り乱れて報道されているため、いったいどっちに基づいて考え、対応すればいいのかわからなくなる。本書は、後者のようだ。


 本書は、「はじめに」で目的が述べられ、章の終わりに「まとめ」、最後に「結語に代えて」があるため、わかりやすい。目的は、つぎのように書かれている。「中国の台頭にともなって東アジアは確かに変わりつつある。しかし、それがどのような変化かと問えば、それは非常に複雑で、錯綜(さくそう)し、多方向で、多義的である、というほかない。本書の目的は、そうした変化の大要を、東アジア地域システム、中国周辺の国々の行動、中国の経済協力、東南アジアのチャイニーズ(華人)の変容に注目しつつ検討し、いま中国の台頭によって東アジアがどう変化しつつあるか、それを素描するとともに、それを理解するために、なにをどう検討すればよいか、その一つの試みを提示することにある」。


 「第一章 東アジア地域秩序の変容」では、つぎのようにまとめている。「東アジアの地域システムは安全保障システムと通商システムの間に構造的緊張がある。しかし、このシステムは、機能別、ネットワーク型に構築され、きわめて柔軟でもある。中国の台頭によって、東アジアの地域システムが中国中心に再編成されるといったことは、まったくおこっていない。おこっているのは、中国をこのシステムに取り込み、それがもたらす構造的緊張を管理するということである」。


 「第二章 周辺諸国の行動」では、東南アジアのタイ、インドネシア、ヴェトナム、ミャンマーの4ヶ国をとりあげ、つぎのようにまとめている。「中国の台頭にともない、東南アジアの国々が次々と中国になびく、といった情勢にないことは明らかだろう。どの国も、国内体制の維持が最大の課題である。そのためには、いかなる国にもあまりに依存することのないよう、使えるものはなんでも使って、行動の自由をなんとか守り、できることなら少しでも拡大しようとする」。


 「第三章 中国の経済協力」では、冒頭で「中国の台頭とともに、中国の市場が成長し、中国と近隣諸国の貿易が増え、中国からますます多くのヒト、モノ、カネ、企業が、国境を越えて周辺の国々に溢れ出している。これは東アジアをさまざまのかたちで変えつつある」と述べ、事例としてミャンマーラオスインドネシアの3ヶ国を検討して、つぎのようにまとめている。「中国の経済協力のトランスナショナルな効果は、国によってずいぶん違う。中国の周辺、ミャンマーラオスにおいては、中国のヒトとモノとカネと企業は、ときにはタイの政府、企業と連携しつつ、事実上、この地域を「中国化」しつつある」。「しかし、それによって、大陸部東南アジア、さらには東南アジア全体が「中国化」されるとは考えられないし、そもそもその前に、「中国化」とはなにか、その意義はなにか、あらためて検討する必要がある」。


 「第四章 歴史比較のために」は、「第一-三章が二〇-三〇年、第五章が一〇〇-一五〇年程度の時間の幅で中国と東アジアを考察しようとしていることに鑑み、超長期の観点から比較史的に、同じ問題を考えること」を試みている。そして、この章だけ「まとめ」がなく、最後の「比較史的考察から」で、つぎの3点を指摘している。「第一に、中国がいかに台頭しても、中国がかつてのように圧倒的な力をもつことは、まずありえない」。「第二は、海のアジアと陸のアジアの勢力配置の変化である」。「そして第三に、現代の国際秩序においては、かつての朝貢システムの時代とは違って、国際関係においても、それ以外のきわめて広範な政治、経済、社会、文化の領域においても、形式的平等と自由と公平と透明性の原則が、ごくあたりまえのこととして受け入れられている」。「中国の台頭によって、世界的にはもちろん、東アジアにおいても、この秩序がラディカルに変わり、形式的不平等と序列(ヒエラルキー)を一般原則とする二一世紀型朝貢システムが復活するとは考えられない」。


 そして、「第五章 アングロ・チャイニーズの世界」では、「中国の外、特に東南アジアにおいて、いま、どのようなチャイニーズが主流となりつつあるのか。それは中国の台頭とともに変容する東アジアにとって、政治、経済、社会、文化的に、どのような意味をもっているのか」と問い、「まとめ」で、まずつぎのように述べている。「中国=チャイナとはなにか、チャイニーズとはだれか、チャイニーズをチャイニーズたらしめるものはなにか、だれがそれを決めるのか、こういう問いに答えはない」。そして、第四章をうけて、「大陸ではチャイニーズであることがしばしば自明のことと受けとめられるのに対し、その外、特に東南アジアでは、チャイニーズは常に商業/資本と同一視され、また一九世紀末以降、海のアジアにおけるイギリス、そしてアメリカのヘゲモニーの下、アングロ・チャイニーズとなりつつあるということである」と述べて、つぎのように本章を結んでいる。「中国(中華人民共和国)の経済的台頭とともに、おそらく中国語(普通語)を学ぶ人は増え、簡体字の新聞が普及し、中国のポピュラー文化、特に歴史ドラマがますます人気を博するようになるかもしれない。しかし、それとまさに同時的なプロセスとして、大陸のチャイニーズも変わりつつある。中国(中華人民共和国)の台頭とともに、中国=チャイナとチャイニーズの意味も変わる。そして、そこで重要なことは、そうした変化はリニアなものではなく、その表象のプロセス、そこに作用する力、その可能性と限界がどう変わりつつあるか、常に考え、観察しておくことである」。


 最後の「結語に代えて」では、つぎの3点「第一は、中国の台頭と東アジアの地域システムの変容」「第二は、近年の東アジア諸国の行動」「第三は、中国から国境を越えてヒト、モノ、カネ、企業等が東アジアに溢れ出す、そのトランスナショナルな効果」にまとめ、これまで述べてきたことを繰り返して、今後を展望している。


 東南アジア各国は、それぞれ欧米列強が侵出してきたとき、それを利用するかたちで、近世においては近世国家を、近代においては近代国民国家を形成した。いま、中国の台頭を利用して、現代に通用する国家、社会に再編しようとしているようにみえる。その中心が、つぎの特徴をもつエリートである。「多くはバイリンガル(略)、トリリンガル(略)の高等教育を受けたビジネスマン、行政官、医者、会計士、法律家、大学教師等のプロフェッショナル(専門職業者)で、米国、オーストラリア、英国などに留学したことのある人たちも少なくなく、国境を越えた人的ネットワークをもち、アングロ・サクソン的なものの考え方、ビジネスのやり方をよく理解しているということである」。東南アジアだけでなく、中国や韓国でもおこっているこの現象がおこっていないのは、日本だけである。日本人、とくに若者は、国際的にだけでなく、東アジアのなかだけでも取り残されていっているが、本人たちにその危機感はない。それを教え、どう対応するのかをともに考えるのが、いまの日本の喫緊の教育課題のひとつだろう。優秀な若者を海外に出すときは、帰国したときのポジションを用意することも忘れてはならない。

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