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『随筆 本が崩れる』草森紳一(文春新書)

随筆 本が崩れる

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―「書刑または屈葬」の現場検証―

 父は、貧乏性で、滅多に単行本を買わなかったが、日課の本屋通いは死ぬまで続いた。耄碌しても、徘徊の行き先は本屋と決まっていたから、警察のお世話にもならずに済んだ。その父が、早晩死の床となる枕の横に置いていたのは、『ゴキブリ三億年のヒミツ』(安富和男著 ブルーバックス)だった。害虫や寄生虫を偏好し、何よりもブラック・ユーモアを好んだ父らしい選択だ。もっとも、死後、書棚を整理したら、『ゴキブリ…』は二冊出てきた。後にも先にも、二度買いしてしまった本はそれ一冊らしい。貧乏性の父も耄碌には勝てなかったのかと思うと哀れだが、それはそれで『ゴキブリ…』への執心が惻惻と感じられ、一生の終い方としては悪くない。

 こんなことを思い出したのも、『本が崩れる』を読んだからだ。

 2008年春、草森紳一は他界した。当時の新聞でも日付がまちまちなのは、他でもない臨死の目撃者がいないからだ。心不全との報告もあるが、死因は本による殺人に相違ない。冗談ではなく本が凶器という推理は、本書を読めば納得できる。殺人未遂の前科が証拠写真付きで記録されているからだ。2005年に出版されたとはいえ、今となると『本が崩れる』には現場検証の趣が添えられたことになる。

 3万冊とも4万冊とも報告される蔵書に囲繞された草森氏は、積み上げられた本のタワーを崩さぬために、深慮遠謀を図る。タワーは巧緻に建造され、建設者にしか解らない書籍の在り処も万策の内にある。一方、企みを超えた本たちの蠢(うごめ)きは時に作者の肝を試し、思わぬ所在を露わにすることもある。冷蔵庫もテレビも机も椅子も棄てられた。すべては、本という食客の居場所確保のためである。「読書人(趣味人)をやっていられなくなった結果の惨鼻なのである。ほかに職業が別にあっての趣味の読書生活は、とうに破綻している」。

 落下する本で来訪者に怪我をさせてからというもの、来客はなし。一挙手一投足にも文字通りのアクロバットを要する(宅配される本の受け取りすら命懸け)生活の仔細は鬼気迫る。わたしの要約などよりも、事件当時、東京新聞に寄せられた高橋睦郎の追悼詩を引用しよう。

  食うための場所 寝るための空間など

  書物に占領され 疾うに消え失せた

  幾十幾百とない書物の塔の

  僅かな隙間(すきま)に

  尻を置き 脚を抱いて

  膝の上で読みつづける

  読んで夜もない 読みつづけて昼もない

  読んでも昨日もなく 読みやめず明日もない

さらに、高橋氏は草森紳一の死を「自らに課する刑罰 書刑そのまま屈葬」と評している。ここまで来ると、逝った者も送る者も凄まじい。

 本書は、崩壊した本によって風呂場に監禁されてしまう事件から始まる。そもそも半開きにしかならない(勿論、堆積する本のため)浴室のドアを開けた途端、脱衣室に押し込まれたきり、耳を弄する瓦解音を背に、草森氏は収監される。以降は、幽閉の身に起きる想念と行動の軌跡である。カチャカチャと無益に鳴るドアノブが吉田健一を連想させたかと思うと、ひと風呂浴びての読書(脱衣場に本の山がないはずがない)と決め込む。松前実の『殺生関白行状記』と続日本史蹟協会叢書の『遠近橋』とやらが選ばれるものの、読み始めるかと思いきや、あれやこれやの連想が始まって、思念は四方八方へ散っていく。そもそもの本との関係がしみじみ語られつつ、合間には脱出の方法を検討。挙句は湯掻き棒の出現に至って大団円を告げる。ドタバタしているのに軽みがあって、往生際が悪いのに泰然としていて、狡猾なのに間が抜けている。一切が矛盾しているのだ。

 風呂場からの脱出を果たした後は、一転、秋田への旅が綴られる。平田篤胤の墓へ、副島種臣ゆかりの港へ、五社堂へと、歴史への底知れぬ造詣に裏打ちされた旅路には違いないが、ヒョウキン極まりない。そもそも草森氏の風貌はルンペンの如し(レゲエじいさんと呼ぶ向きもあるようだ)。しかも、道中の狙いには、「ガタの来た」身体の不調-胸痛・足背の痺れ・腰痛・書痙の四病の同時発症-の退治も込められている。当人は「老化の悪化」と言うが、当時還暦そこそこと推定される齢にしては確かにガタが目立つ。職業病のあれこれに加えて、ショートピースを1日60本ときているのだから無理もない。そのレゲエじいさんが男鹿半島をヒョロヒョロと旅する本書後半は、「息をする物の怪(塊)」たる蔵書に縛執されたマンションの一穴からの解放とも見えるし、穴から出ようが出まいが変わりはないとも見える。生きていること自体が、穴の中と言えば言えて、どこにいても散歩しているように見えるのが、いかにも草森紳一らしい。

 中国史・マンガ・デザイン・建築・写真など広大なジャンルを跨ぐ(これも比喩でなく、執筆のたびに本のタワーを跨いでいたわけだ)膨大な著作の水面下には、未完作品が数知れないという。その業績を支えた「資料」としての蔵書との絶えざる攻防が、本書には記録されているわけだが、その営みを終えて、草森紳一は鬼籍に入り、蔵書は帯広の短大と廃校となった小学校へと運ばれ、ボランティアの手によって整理されつつあるという。

 囚縛と無碍のあいだを運動し、混沌と秩序が入り乱れ、恩赦と呪詛が共鳴する『本が崩れる』を読むことは、そうした矛盾の穴(草森式には老荘の「無」となろうか)を覗くことでもあり、遺された者に可能となる墓参でもある。ちなみに、書評空間では、大竹昭子さんが既に本書を取り上げているhttp://booklog.kinokuniya.co.jp/ohtake/archives/2008/06/post_27.html。著者に面識のあったという大竹さんならではの心のこもった追悼書評だ。合わせて読んでいただきたい。

 さて、父の死に方などは、草森紳一に比べれば、楚々としていることこの上ない。だいいち、臨死の床(自宅)には『ゴキブリ…』以外にも数名の血縁が取り巻く余裕があった。柩に末期の一冊を入れるでもなく葬送の儀は終えたが、二冊あるなら一冊くらい入れてやればよかった、と悔いるでもないのは、貧乏性の血統なのかも知れない。


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