『スペイン帝国と中華帝国の邂逅-十六・十七世紀のマニラ』平山篤子(法政大学出版局)
帯に、「マニラにおけるスペイン政庁設立の1571年から1650年前後まで、スペイン人と華人との邂逅を地球一元化の過程における画期と位置づけ、両者の関わりにおいて惹起された事件を軸に、「ヒトの移動と邂逅」を考察」とある。著者平山篤子は、「序章 本書の課題と構成」で「考察の対象を、マニラにおけるスペイン政庁設立の一五七一年から一六五〇年前後までとするのは、舞台である東アジアもスペインが位置するヨーロッパも共に十七世紀中期に時代の転換期を迎え、概ねこの時期を境として政治や経済的環境が大きく変化するため、それ以前と以後では諸条件が異なるからである」と説明している。
本書で、著者は従来の通説を原史料に基づいて批判し、新たな事実・解釈を随所に示しているだけでなく、本書全体を通してより広い視野のなかで根本的な問題を提起し、「現代の「地球一元化」が惹起する問題と同質にして最初の議論」を展開している。そして、より説得あるものにするため、構成に充分な注意を払っている。本書の構成は、「序章」、第一章、2部7章と「終章」からなる。第Ⅰ部に入る前に、61頁と比較的長文の「第一章 スペイン・カトリック帝国とフィリピーナス諸島(一四五〇頃~一六五〇頃)」があり、「スペインの海外発展の特徴を整理・確認」している。つぎに、各部の「はじめに」で部の全体像を示し、課題を明らかにしている。各章のほとんどには「はじめに」と「小括」があり、各章の課題と明らかになったことが整理されている。そして、「終章 ヒトの移動と邂逅」では、「第Ⅰ部、第Ⅱ部を比較考察する視点を維持し、スペイン人のチナ認識の経年変化、両者の間に維持される関係、惹起される事故や事件にスペイン人のチナ認識がいかなる影響を与えるのかに注視し」、総括している。
この「終章」では、各部で論じ、明らかにしたことを、つぎのようにまとめている。「第Ⅰ部 スペイン・カトリック帝国の対チナ観」では、「フィリピーナス諸島を中心舞台として政庁樹立の初期に起きた明国宣教に関する議論を、それに参画した三人の論者を中心にして論じた。これは当事者が「チナ事業」と呼ぶもので、明国の宣教のための軍事侵攻・統治までを想定した計画、およびその正邪に関する議論を主題にしている」。そして、「議論の動機は他者の権利擁護などという現代の人権派的発想にあるのではなく、正に国王も含めた個々の人間の魂の救済にあるのであり、それゆえにこそ、これほど真剣、かつ長期に亘るのである。つまりここでカトリックは公私の世界を繋ぐ「公共善の鎹」の役割を果たしていると言えよう」。「そして、本稿で取り上げた議論は、新大陸での宣教問題では征服民と被征服民という関係の非対称性ゆえに見逃される面を有する。即ち、チナに対しては「高度文明の他者」という観念が働くことで、自他を対等に位置させねばならないという意識を引き出した。この点で現代に与える示唆は新大陸の議論よりも大きいと結論づけた」。
「第Ⅱ部 スペイン政庁の対華人観、対明観-マニラにおける華人暴動を通して」では、「スペイン統治期前半に起きた大規模な華人の暴動としては五回が記録されているが、その最初の二回を取り上げた。暴動に関する報告書が、平時には語られない状況、本音や習慣等を露わにする可能性が大きいことに注目したからである。各事件に言及する史料に沿って経過確認をした後、その原因と対応行動、および双方の行動の理由に焦点を当て、時代背景の推移にも注目しながら論じた」。そして、つぎのようにまとめている。「地球規模でモノ・ヒト・カネ・情報が動く現実に気がつき、その問題点に深い憂慮を抱きながらも止められない、それが地球現象として日常的に人々の口に上り始めたのはごく最近のことだが、この点でも当時期マニラはそのプロトタイプの経験をしていたことになる。政治システムも文明の原理も全く異なる両者が、世界に変革を来すほどに達するモノの量を扱いながら、決定的な負の関係に陥ったのは、八十年余りの中で二度しかないと見るならば、共存を維持するのが常態と言え、関係維持の姿にこそ特筆すべきものがある」。
最後に、本書の限界、今後の課題をつぎのように述べて、締めくくっている。「両者の関わりの解明は、まだ圧倒的にスペイン側の史料に拠っている。対呂宋交易が数量面で圧倒的な量を誇っていたとすれば、明・清国側史料によっても証拠づける余地はまだあるはずである。第二次暴動では、諸島居留の漳州華人のほとんど死に絶えたゆえに史料が残らないとも言われるが、本稿では脱出した華人も多いのではないかと推測した。その観点に立てば、清国側史料を絶望視するのは少し早いと考えられる」。「一方、帝国の重要な使命としてのカトリック化では、華人の改宗過程について未詳の部分が大きい。彼らの改宗過程、改宗の原理などという華人教会発展のプロセスを、現地修道会の文書等を通じて具体的数量で明らかにしていくのがその一つの方法と考えられる。この両面から進めていくなら、緒についたばかりのこの地域の「ヒトの移動と邂逅」に関する研究は、地球一元化が惹起する窺うに最も困難な局面の解明をもう一歩進めることになるのではないだろうか」。
本書は、文献史料を丁寧に読み込むことによって、新たな発見と解釈を導き出すことで、学問的に大きな貢献をしている。その背景にあるのは、著者が「圧倒的にスペイン側の史料に拠って」いながら、東アジア・東南アジア側の視点を取り入れることによって、文献史料では見えないものを感じながら本書を執筆したことだろう。それは、つぎの一節からよくわかる。「本稿で扱う時期、フィリピーナス諸島の社会構成はいかなるものであったのか。ドミニコ会士フアン・コーボが一五八九年に母修道院に送った報告書に拠れば、特にマニラには多様な人がいた。公式には語られないポルトガル人も少なくなく、現地人に次いで華人が多く、日本人がそれに次いだ。日本人の数は当時それほど多いとは思えないが、日本人に強い関心を持っていたコーボは彼らに注目したのであろう。アジア系ではシャム、カンボジア、ジャワの人間、他にはベンガルなどかなり西方の人々や「ターバンを巻いた人々」、更には、「ギリシアから来たギリシア人」や「クレタ島から来たクレタ人」にも言及しており、公文書には現れない多様な人々が開放空間である諸島にはいた可能性を示唆する。他方でコーボが言及しないにもかかわらず、確実に存在したのは新大陸の先住民で、メキシコからの補充兵力のかなりを彼らが占めた。彼らは諸島住民と同一視されていたので、コーボの関心を喚起しなかったのだろう。以上の多様な人間集団は、スペイン人到来当時の報告や華人の記録には現れないので、スペイン人の到来が喚起した現象と言えよう」。
見えないものは、当然書くことができない。しかし、見えないものを感じながら、より広い視野のなかで考察することによって、近代では克服できなかった西洋中心史観やナショナル・ヒストリーから脱することができる。著者は現代を意識し、現代とのつながりを求めながら研究し、執筆していることから、現代に通用する歴史を本書で具現したということができるだろう。