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プロの読み手による書評ブログ

『永遠まで』高橋睦郎(思潮社)

永遠まで

→紀伊國屋書店で購入

「異時間体験の方法」

 詩を読む人が少なくなっている理由のひとつは、日常生活の中に〝詩のための時間〟がないことだと思う。詩には、ふつうの時間とはちょっと違う時間が流れている。ふだんの生活にひたったまま接するのは難しい。だから、ここだけは特別、と枠を区切ることから始めれば、少なくとも〝異時間〟に立ち向かうための心の準備ができる。たとえば1日に10分、いや、5分を〝詩のための時間〟に割くことはできないか。3日に5分でもいい。そうすれば、週に二つ三つは詩が読める。一ヶ月あれば、それなりの数の詩人と出会うこともできる。

 詩に〝異時間〟が流れているのは、内容ともかかわっている。詩でもっとも大事にされてきたテーマのひとつは、死である。死者を語るエレジー(哀歌)という古い様式は、衰えるどころか、近代になっても詩のことばに力を与えている。これは死が、時間の中を生きてきた私たちを無時間、もしくは非時間としての〝永遠〟に連れ去るという意味で、私たちにとってもっともわかりやすい〝異時間体験〟だからである。

 死を時間の側からではなく、時間を越えたところから語ることが詩にはできる。私たちはことばが時間の中にあると考えがちだが、そして多くの場合はたしかにそうなのだが、そうではないことばの使い方もありうる。死者のことばのようにして語られることばがある。そこに入っていくと、まるで時間という重力から解放されたかのように、ことばに奇妙な浮遊感さえ生じる。

 高橋睦郎の『永遠まで』はこの〝異時間体験〟にこだわった詩集である。巻頭詩は「私の名は 死を喰らう者/新しい不幸の香を 鋭く嗅ぎつける者」と始まる。いかにもゴシック的な死のトーンが聞こえると思う人もいるかもしれないが、果たしてそうだろうか。

私の年齢は不詳 というより 不定

零歳にして百歳 むしろ超歳

白髪 皺だらけで 産声を挙げ続ける

私を捜すなら あらゆる臨終の床

瀕死の人を囲む 悲しみの家族にまぎれ


 「零歳にして百歳」とはどういうことだろう。これは霊界からの声などではない。そういうものは、たいていこの世の投影である。ここにあるのは、ちょっと「夢十夜」など思い出させるような変な気分である。こちら側にいるのか、向こう側にいるのかわからないねじれた声。すでにその微妙な境地がこの巻頭詩にも読めるが、それがもっと露わになるのは、母を語った「奇妙な日」という作品である。何より、ことばのリズムからして違う。

おかあさん

ぼく 七十歳になりました

十六年前 七十八歳で亡くなった

あなたは いまも七十八歳

ぼくと たったの八歳ちがい

おかあさん というより

ねえさん と呼ぶほうが

しっくり来ます

 「ぼく 七十歳になりました」という部分には老いの境地があるが、同時に、「ぼく 」とことばを切る口調に、幼児のような舌足らずさ、たどたどしさも聞こえる。「零歳にして百歳」とはそういうことだ。ことばが時間の中をするすると流れていくのではなく、いちいち寸断されている。その隙間に、時間の外から来るような冷気が吹きこんできて、ヒヤッとする。次の部分もそうだ。

来年は 七歳

再来年は 六歳

八年後には 同いどし

九年後には ぼくの方が年上に

その後は あなたはどんどん若く

ねえさんではなく 妹

そのうち 娘になってしまう

年齢って つくづく奇妙ですね

 「そのうち 娘になってしまう/年齢って つくづく奇妙ですね」という箇所の聞こえ方はとても耳に残る。「ねえさん」から「妹」へと若返っていく母親が自分との関係性を変えていく、その変化に合わせて、馴れ馴れしいような、下手すると男女の関係さえ連想させるような接近の口調になっている。そういう変わり身が可能になるのも、その前に「八年後には 同いどし」とか「ねえさんではなく 妹」といった〝寸断〟的なリズムがあればこそである。寸断的で、かつリズミカルと言った方がいいかもしれない。今にもノってしまいそうになるが、ヒンヤリとした感触もつねに残る。

 いろいろと気になる作品がある詩集なのだ。この語り手はどこにいるのだろう?生きているのか?死んでいるのか?とこちらはいちいち緊張する。とりわけ印象が強いのは「この家は」という作品である。

この家は私の家ではない 死者たちの館

時折ここを訪れる霊感の強い友人が 証人だ

色なく実体のない人物たちが 階段を行き違っている

彼等が恨みがましくなく 晴れ晴れとしているのが 不思議だ

と彼は言う 不思議でも何でもない 私がそう願っているからだ

 なぜ、「私」の家は「私の家ではない」のか。なぜ「死者たちの館」なのか。実はこの作品、ほんとうは詩を書くことについて語った作品である。

親しい誰かが亡くなって 葬儀に出るとする

帰りに呉れる浄め塩を 私は持ち帰ったことがない

三角の小袋をそっと捨てながら 私は呟く

もしよければ ぼくといっしょにおいで

その代り ぼくの仕事を手つだってね

そう 詩人の仕事は自分だけで出来るものではない

かならず死者たちの援けを必要とする

 ここまで読むと、そうか、と思う。でも、「ぼくの仕事を手つだってね」で種あかしがされてしまったということではない。死を通して詩に辿りつくよりも(それでは詩の作法の話になってしまうから)、詩を通して死に向かっているところが読み所である。

 「この家は私の家ではない」という強烈な一節は、この作品のエッセンスとなっている。だから、何度も繰り返される。

この家は私の家ではない 死者たちの館

ぼくのところにおいでというのは 厳密には間違いだ

きみたちの住まいにぼくもいさせてね というのが正しい

ここには はじめから死者たちが群れていて

しぜん 新しい死者を呼び寄せるのだから


この家は私の家ではない 死者たちの館

私の家といえるのは 私が死者となった時

それも正しくは 私たちの家というべきだろう


 「この家は私の家ではない」という部分がかくも強烈に響くのは、それが語りの足元をすっぱり放擲するからである。でも、そんな足元のない薄ら寒さから出発して、なお、どこか遠くに呼びかけているようにも聞こえる。詩の締めくくりの部分では、さらにひとひねりがある。

私はもう詩を書かない 書く必要がない

すでにすべての抽出が ここで書かれた詩であふれ

しかも それらの詩はすべて生まれそこないの蛭子

生きている誰かが来て 私たちのあいだに住む

彼が詩人であるかどうかは 私たちの知るところではない

ただ願わくは 彼がこの家を壊そうなど 謀叛気をおこして

私たちと彼自身とを 不幸せな家なき児としませんように

生まれそこなった詩たちを 全き骨なし子としませんように

 弔いのような祈りのようなトーンもあるが、同時に一種の養生訓のようにも聞こえる。死というものをいかに生きるかを、穏やかな口調で力説しているようにも聞こえる。

 詩は「時間換算方式」には合わないものだ。いくら時間の枠をつくっても、そこからぬるっとはみ出していく。同じ箇所を何度も読んでしまって停滞したり、かと思うと、するすると頁を繰って、でも目的地には決してたどり着かないということもある。異質の時間が流れているというのはそういうことだ。

 生者、死者を問わずさまざまな人に向けて語られた作品を集めた『永遠まで』は、他者との出会いを通しての一種の自伝である。そこからは、明らかに人生の匂いが漂ってくる。しかし、それを単なる自分語りにまとめずに、生と死の声の拮抗として差し出したところに、詩人の強さというか、生命力のようなものを感じるのである。

 

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