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『反市民の政治学-フィリピンの民主主義と道徳』日下渉(法政大学出版局)

反市民の政治学-フィリピンの民主主義と道徳

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 リピーターが多く、やみつきになる国や地域、社会がある。そんな国のひとつがフィリピンで、著者もその虜になった。「あとがき」で著者は、その理由をつぎのように述べている。「私は、フィリピンをこよなく愛している。いつもフィリピンに帰ることを待ち望んでいて、まるで日本で暮らす出稼ぎ労働者のようだ。誕生日もフィリピン独立記念日であり、運命を感じている。研究の道を進むことになったのも、学者になりたかったからではなく、フィリピンとの関わりを失わず、もっと深めていきたかったからである。フィリピンで得た複雑な感情や経験を、何とか言葉にしていきたかったのである」。「フィリピンを好きな理由を問われれば、最終的には「人が好きだから」と答えるだろう。彼らは、とにかく優しいのだ。フィリピンに行くまで、人にこんなに優しくされたことはなかったようにさえ思われる。フィリピンに行くたびに、彼らの優しさをどうにかして日本社会に持ち込むことはできないものだろうかと真面目に考えている」。


 「学部生時代にワークキャンプ活動を通じてフィリピンに惚れ込」んだ著者は、卒業論文を書く過程で、つぎのようなことに気づいた。「「フィリピン人」という共同性は、厳しい抑圧や貧困に抗して、より自由で平等な社会を作り出そうとする人びとの実践から作られているのだと知り、胸が熱くなった。何でも国家に依存しがちな日本人とは対照的に、フィリピンでは国家が人びとの豊かさや生活を保障しないため、市民が自ら立ち上がり率先して政治を変革しようとしているのだと知り、強い感銘を受けた」。


 にもかかわらず、愛すべきフィリピン人が願うように「自由で平等な社会」はなかなか実現せず、それどころかやたら流血事件が起き、多くの人が殺害される。その標的となるのが、事実を伝えようとするジャーナリストであり、フィリピンはジャーナリスト受難の国としても知られる。それでも、立ち上がる人びとが後を絶たないところに、著者は惚れ込んだのだろう。だが、本書はそんな著者の思いを背景にしながらも、きわめて客観的にフィリピン社会を眺め、考察した成果である。それが著者には気になったのか、「本書では、社会の分断、対立、敵意など、フィリピンの否定的な面を描きすぎたかもしれない」と吐露する。著者を「虜にしたフィリピンの魅力は、人びとの優しさや濃密な共同性」にあると、フィリピン人に直接かかわりをもたない日本人に伝えることがいかに難しいことか、地団駄を踏んでいるのは著者だけでなく、多くの日本人フィリピン研究者も同じだろう。学問的な社会分析が誤解を招くのではないだろうか、といつも心配になることも。


 本書は、序章、6章、終章からなる。序章「フィリピン民主主義と道徳政治」の冒頭で、「本書の課題は、現代フィリピン民主主義を、市民社会で争われる道徳政治、という視座から分析することである」と述べた後、つぎのように説明している。「ここでいう「道徳政治」とは、善とされる集団と悪とされる集団をつくりだし、両者の間に境界線を引いていく政治、すなわち善悪の定義をめぐる政治を意味しており、資源配分をめぐる「利益政治」と区別される。この道徳政治の分析にあたっては、市民社会において、いかなる勢力が「我々」を善と定義して正当化し、知的・道徳的主導権を打ち立てるのか、というヘゲモニー闘争への着眼が決定的に重要になる」。


 1986年にフィリピンでは、「ピープル・パワー革命によってマルコス権威主義体制が崩壊し、民主化が達成され」、「民主化以降、中間層出身の活動家が数多くのNGOを結成し、様々な分野で活発な政治参加を展開していった」。「こうした実践は、エリート支配から自律的な中間層が、高い道徳的意識を持つ市民として政治に参加し、民主主義の定着と深化に寄与していると評価されている」。「しかし、近年のフィリピンでは、道徳的市民を自負する中間層の活動や言説が、逆に民主主義を阻害したと解釈できる事例もある」。


 このような近年のフィリピンの状況を背景として、著者は本書の命題をつぎのように提示している。「市民社会におけるヘゲモニー闘争は、組織化されていない一般の人びとも含めて「我々/彼ら」という道徳的な対立関係を構築しており、その偶発的な変化の動態が民主主義の促進と阻害を強く規定している」。「フィリピンの場合、階層分断が特に深刻な影響を及ぼしており、本書ではそのことを分析の基盤にすえるために「二重公共圏」という概念を導入したい。これは、言語と教育、メディア、生活空間の格差によって分断された中間層と貧困層の生活世界および言説空間を、それぞれ「市民圏」と「大衆圏」として捉えるものである」。そして、「本書では、このような二重公共圏を舞台とする「我々/彼ら」の道徳的な対立関係の動態こそが、フィリピン民主主義の促進と阻害に決定的に重要な役割を果たしてきたことを明らかにする。そのうえで、善悪の対立に基づく道徳政治が、資源の配分をめぐって争われる利益政治を周縁化することで民主主義を蝕んでいることを主張したい」。「要するに、これまでのフィリピン市民社会論に欠けていたのは、一般の人びとも対象に含めながら、「市民」と「大衆」の対立や協働といった流動的かつ偶発的な関係が、政治過程と民主主義に与える影響を明らかにする分析枠組みなのである」。


 第1章「分析枠組みの提示」の後、第2~6章では、著者が2002年4月から翌年4月にかけてマニラ首都圏ケソン市の不法占拠地域に住み込んでおこなった大衆圏にかんする参与観察と、それを補完するために2008~10年におこなったインタビュー調査に基づいて、具体的な事例をあげながら議論が展開されている。


 終章「道徳政治を越えて」では、「フィリピンにおける道徳政治について得た知見を整理」し、つぎのような社会的分断に抗する処方箋を示唆して、本書を閉じている。「まず、複数公共圏の間で、具体的な人びとが出会う接触領域を拡大していくこと。次に、接触領域において、善悪をめぐる最終的な定義を保留したコミュニケーションを継続的に実践し、道徳的対立の昂進を抑制すると同時に、政治をあらためて利益のレベルに落として不平等の改善に取り組むこと。そして、「すべき」という道徳の統合力に頼るのではなく、人びとの自発的な共感や共苦を礎にして緩やかな共同性を新たに紡ぎ出していくことである。もっとも、これらの処方箋はまだ示唆の段階にすぎないため、理論研究を深めると同時に事例研究に基づいてその有効性を検証していく必要がある。分断を経たうえでの新たな共同性の可能性、これを今後の研究課題としていきたい」。


 日本に暮らすフィリピン人は20万人を超えている。日本人とフィリピン人のあいだに生まれた子どもはフィリピンに数万人いるといわれ、日本や世界各地に暮らす日本国籍、フィリピン国籍、「無国籍」の者をあわせて何人いるのか、その実態は定かでない。かれら/かの女らを支えているのも、「人びとの優しさや濃密な共同性」である。格差社会がすすみ、「豊かさや生活保障」をしなくなってきている日本や世界で、フィリピン人のもつ「優しさや濃密な共同性」が大切であると思ういっぽう、国家に頼れないむなしさも感じる。フィリピン人から学ぶことの大切さが、本書から伝わってくる。

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