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『領域権原論-領域支配の実効性と正当性』許淑娟(東京大学出版会)

領域権原論-領域支配の実効性と正当性

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 なぜ、領土問題は解決しないのか、本書を読めばわかる。だが、本書を読んでも、領土問題の解決の糸口どころか、ヒントも得られない、というのは言い過ぎだろうか。「領域権原および領域主権をもつことができるのは国家のみであるという前提」、遊牧民や海洋民のような定住していない者や「文明水準がヨーロッパの基準以下の場合は、その権原が認められない」、さらに2国間だけで解決しようなどという時代遅れな国際法を学んでも、なんの役にも立たないように思えてくる。


 著者、許淑娟は、そのような読後感にたいして、「あとがき」でつぎのように反論している。「今日において、世界を国境線で区切ることに対する批判は見慣れたものになり、主権概念の古臭さを語ること自体もはや古臭くなっている。しかしながら、私たちは依然として主権国家体制の中で生きている。グローバライゼーションや、地球共同体の価値、さらには9・11のインパクトを受け止めながら、主権国家の担う役割が変容しており、新たな認識枠組、新たな方法論、新たな概念が必要とされている(もっとも、こういう言説も既にありふれたものとなっている)。そのようななかで、領域権原という古めかしい概念を判例分析というオーソドックスな手法で検討することを通じて、領域主権について考察するという作業は、迂遠なだけでなく、随分と時代遅れなようにみえる。これに対して、本人は「あえて時代遅れ」なつもりで、この作業を進めていた。既存の概念や方法論を批判・再構築するためには、既存の方法論に依拠することは避けなければならないという指摘もあるだろう。19世紀以来、実証主義が支配的であったことに鑑みれば、既存の枠組から新たな価値や秩序を構想することは困難で、既存の枠組に肯定的に傾きがちなことは確かかもしれない。しかし、私は、概念や方法論を徹底させるというやり方をあえて選ぶことにした。既存のアプローチはその徹底さが足りないように思えたし、徹底した結果が現状肯定に繋がるのであれば、新たな枠組を導入しなくても、その枠組は十分に機能すると評価できるからである」。


 本書は、「領域の運命を決定するのはその人民であり、領域が人民の運命を決定するのではない」という「一節が問題としている「領域の運命」とはどのように決定され、その正当化はどのような法的構成のもとに成立しているのかを探求することを目的とする」。そして、「結語」で、つぎのように述べている。「ある国家がある空間を「領土」と呼べるのはなぜか。また、その領土に対する主権を他国一般が尊重するのはなぜか。この問いに動機づけられながら、本論考は、<領域権原>概念の意義や内容、領域や領域主権との概念的な関係を問い直す作業を展開をした」。「領域権原概念の変遷は、変動する国際関係と法理論に伴う法の変革の要請に応えつつも、秩序の安定性を維持することをめざす継続的な営みとして捉えられる。新大陸の発見に伴い植民地争いが生じた際に、ヨーロッパ列強間における植民地の領域規律が求められ、領域法が体系をもって論じられはじめるようになった。ヨーロッパ内における教皇の権威の位置づけの変化や、植民地経営の目的の変質、さらには自然法論から法実証主義の確立という法理論の移行に応じて、領域法はその形式ならびに基盤を変遷させてきた」。「本論考は、これらの領域法のあり方や領域権原をめぐる議論を所与のものではなく、それぞれの歴史的状況において選び取られたものとして、<領域権原の基盤構造>という分析概念を用いて整合的に論じることを試みた」。


 本書は、「序論」と3章、「結語」からなる。「第1章 取得されるべき客体としての領域主権-様式論」では、「「新世界の発見」とその植民地化に際して、ヨーロッパが構想した領域取得の正当化の論理が検討される。それまではヨーロッパの王の領土の遣り取りを規律する役割を果たしてきた領域法が、非ヨーロッパと出会い、領域法の再編が試みられた時代であった。それぞれの国際法学者の世界観と相俟って、領域法のいくつかのヴァージョンが示されることになるが、本書では、とりわけ、ベルリン議定書(1884年)の起草過程に顕著に現れる「無主地」の概念の検討を通じて、権原概念の基盤をめぐる議論の状況、および、「様式論」の意義を吟味する」。「第1章の結論としては、領域法理論における領域の客体化(ドミニウム的把握)と<実効性の要請>が、権原概念の物的基盤に議論を限定することによって、正当化(型)基盤をめぐる議論を後退させたことを指摘する」。


 「第2章 行使することで取得される領域主権-「主権の表示」アプローチ」では、「パルマス島事件裁定での当事国の議論および仲裁人の論理構成に対する考察を通じて、新たな領域法体系と称される「主権の表示」アプローチの導入過程が、領域法における<実効性の要請>とその基盤をめぐる議論とともに提示される過程として描き出される」。


 「第3章 「合意」に基づく領域主権」-ウティ・ポシディーティス原則とeffectivités」では、「1980年代以降の国際裁判判決の論理から、脱植民地化過程を規律するウティ・ポシディーティス原則の意義が、領域法の歴史的展開のなかに位置づけられる」。「植民地独立という過程において、領域権原における物的基盤が一時的に排除される場合には、権原の基盤はいかなるものとなるのかについて考察する」。


 本書を通じて、領域権原がヨーロッパの法的論理で考えられヨーロッパ以外を「無主地」としたこと、領土と結びつかない遊牧民や海洋民の統治形態が考慮されなかったことなどから、1494年にスペイン・ポルトガル間で結ばれたトルデシリャス条約で東西分割するなど、なぜヨーロッパ諸国が勝手に非ヨーロッパ世界を分割することができたのかがわかった。また、1648年のウエストファリア条約以降、国際法に慣れ親しんだヨーロッパ諸国が、非ヨーロッパ世界を植民地にしたり、不平等条約を押しつけたりしたことが、なぜできたのか、その根拠もわかったような気がした。近現代において、国際法に対応できる人材に乏しい非ヨーロッパの国々は、独立後もヨーロッパはじめ「先進国」のなすがままにされ、それを覆すには反乱しかなかったことが想像できた。


 結局国際法は、問題解決の一手段になり得ても、絶対的ではなく、国と国との信頼関係や国を代表する者の力量・人柄によって、その解釈は変わってくる。いったん解決したものが、国と国との信頼関係が崩れたときや、国を代表するものの不用意な言動で、蒸し返されることもある。つねに友好的な国際関係を築いていなければならないことは、いまの日本と中国や韓国との関係を考えれば、よくわかる。


 著者が、「時代遅れ」と言っている意味もよくわかった。国際法国益に振りまわされるが、現代は国益より地球市民益のほうが優先される時代になっている。国益にこだわるあまり、人類の不利益につながることが、環境問題や資源開発などでみられる。国しか当事者になれない国際法を超えるコモンローが必要だが、それにはまだまだ時間がかかりそうだ。したがって、著者が述べるとおり、本書のような考察が必要ということになる。たしかに、多くのことを学んだ。

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