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『セラピスト』最相葉月(新潮社)

セラピスト

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「評伝にはしない」

 ノンフィクションというジャンルの可能性を感じさせる一冊である。

 日本におけるカウンセリングのあり方を取材した本書は、内容からすれば、たとえば中井久夫河合隼雄の評伝としてまとめられていてもおかしくはなかった。かなりの部分は、中井や河合が統合失調症患者の治療の現場で果たした革新性を強調することに割かれており、最相氏自らがいわば実験台となって中井氏の「風景構成法」による診断を受けるあたりは、資料的価値も大きい。

 しかし、最相氏はあくまでカウンセリングというテーマにこだわった。もしこの本が評伝として書かれていたなら、おそらくカウンセリングをめぐるさまざまな問題意識は、中井久夫河合隼雄といったカリスマ性に満ちた〝偉人〟の、人生の物語に吸収されてしまっただろう。それだけ二人の人生にはあっと驚くような、そして濃厚な、エピソードがあふれているということでもある。本書でもそうした物語が排除されているわけではないのだが、著者の眼はつねに別の一点をも見据えている。

 それはカウンセリングの根本的な「うさんくささ」ということである。著者は終始この疑念を捨てない。そもそもカウンセリングの歴史はそれほど長いものではない。アメリカでこの言葉が使われるようになったのは20世紀はじめ。日本にもまもなく紹介され、第2次大戦後に本格的に導入されることになる。ただ、長らくカウンセリングには、カウンセラーが相談者を教え導く「善導」という考えがあった。そういう思考法を根本から変えたのが、河合隼雄であり中井久夫だったのである。

 彼らの方法の支えとなったのは「箱庭療法」と呼ばれる診療だった。セラピストが箱庭を用意し、そこにクライアント(患者)がおもちゃを入れていく。そうすると患者にとってうまく言葉にならないものが、無理に言葉にしなくても、この箱庭を通して表に出てくるというのである。河合隼雄は「見ただけでわかるという直感力がすぐれている」日本人には、箱庭療法の可視性がぴったりだと直感し、いち早く国内での治療に導入した。

 この療法にはひとつ鍵となることがあった――これは河合や中井の診療法の全体にもかかわることで、本書の最大のテーマでもある。セラピストがいかに黙るか、ということである。セラピストの沈黙は、それまでの「善導」とは対極にある姿勢だった。診療する側はあくまで患者の言葉が出てくるのを待ち、無理強いしたり、介入したり、やたらと解釈を加えたりはしない。大事なのは、表に出されたものを共有すること。

 こうまとめると、現代人の多くは「それはすばらしい」と安易に賛成するかもしれない。「他者の声に耳をすませる」といったフレーズは今、とても耳に心地良く響く。しかし、ことはそう単純ではない。一口に沈黙と言っても、ただ黙っているというのとはちょっと違う。上手に黙るのである。しかも簡単で明快なマニュアルがあるわけではない。だから実際の診療は、それぞれのセラピストのやり方におおいに依存することになる。黙る、待つ、という方法論にはじめは納得した人も、診療の現場で不安に思ったり、疑念をいだくこともあるだろう。そして、ときにはそんな疑念があたっていることもある。また、「箱庭療法」はとくに統合失調症の患者には、たいへん危険な作用をおよぼすことがあるという。使い方によっては、人の秘密をのぞくことにもつながるし、さまざまな負の側面も想定されるのである。

 最相のスタンスが効力を発揮するのはそのあたりである。「カウンセリングはうさんくさくはないか?」という疑念を最後まで手放さずに語りつづけることで、著者は「箱庭療法」や、これと組み合わせて使われる「風景構成法」を成功物語や魔法の治療法の一部として示すのではなく、うまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない、しかし、それまで問題にされなかったものに到達する可能性をもった何かとして描き出し得ている。

 とりわけ注目すべきは、最相の声の重ね方である。ノンフィクションがさまざまな証言の集積を土台として組み立てられるのは当たり前のことだが、しばしばそこには強力な物語が生じてしまう。つまり、証言の数が多くても、そこにわかりやすい筋書きが見えてしまうことがままある。では、相対立する証言をぶつけあえばいいかというと、必ずしもそうではない。むしろ証言が鋭く対立すればするほど、そこにはいかにも悩ましげな〝ドラマ〟が生じてしまうのだ。そこでは問題は〝文学化〟している。

 本書では最相は極力そうした〝ドラマ化〟や〝文学化〟を避けているように思える。話をわかりやすくしすぎない。おもしろくしすぎない。典型的なのが、先にも触れた中井との面談の記録である。これが冒頭、中程、そして終盤と三箇所で挿入されるのだが、真ん中のそれは実際に最相が「風景構成法」による診断をうけた様子の記述である。著者がいかに物語化を避けようとしているか、その苦労が偲ばれる記録になっている。

 記録の中で中井は、「風景構成法をやってしまいますか」と言うと、A3の紙を用意して「枠があるほうとないほうと、どっちが描きやすいですか」というような言葉をかけながら、少しずつ最相に描画をうながす。決して強制的ではないやり方で、さりげなく何を描くかを指示する。

「まず、『川』がくるんですよ、なぜか」
「はい」
「むろん、どこに流してもいいですよ」
「はい。これまでの取材や資料で見た他の方の絵が頭に浮かんでしまうのですが、自分が思い浮かぶ川はこれしかないという川がありまして」
「それしかないというなら、ご自分の川でいいんじゃないでしょうか」
 では、とサインペンをもち、川を描く。紙の中心から手前に向かって流れてくる川である。遠近法で描いているため川上は狭く、川下に向けて川幅が広がっている。ちょうどスコットランドの旗のように長方形をXで四分割した下方の三角形が川になっているというイメージである。
「ほう……」
……。
「『山』、ですね」
 川に続いて、山を描く。さきほどの川の右側に山を描くが、中腹で切れて頂上は見えない。山は複数あってもよいというので、最初の山の奥にもう一つ山を描く。こちらはてっぺんが見えている。
「山ですねえ。そうすると『田んぼ』でしょう」(一六七)

 実に散文的な会話である。緊張感や、方向感が薄く、小説ならこんな部分はボツだろう。しかし、どことなく気の抜けたような会話だからこそ、きっと当事者の何かをゆるくしてくれる作用が働いているらしい、ということがうっすらとわかる。何となく〝その向こう〟に穏やかに到達していく感じがある。いや、〝その向こう〟とは、ほんとうはこんなふうにぼおっとしながら到達するものなのかもしれない。私たちは刺激の強い〝ドラマ〟に慣れすぎているのだ。

 実はこのあと、中井のゆるやかな誘いにうながされつつ、最相自身が自分の描いたものについてのある解釈に到達することになる。ここはこの本のひとつの山とも言えるところだ。実験台になった著者が、自らの苦い部分に引き合わされる。しかし、本来なら情動とともにこみあげてくるものを描写してもおかしくないその部分でも――そしてセラピーではしばしばそういうことは起こりうるだろうが――著者の感傷は極力抑えられている。

 本書にはカウンセリングをめぐる問題を、個人の物語として完結させまいとする意識が強く働いている。評伝にはなるまいとしている。しかしそれは同時に、すべてを個人の物語として完結させたいという隠れた衝動が強かったことをも示唆する。本書では明らかに河合隼雄中井久夫という二人の巨人が屹立している。が、それだけではない。今ひとつの物語も見え隠れする。著者自身の物語である。この物語は完全に封殺されることなくあちこちに顔をのぞかせるが、しかし、著者の社会的な問題意識を呑みこむこともない。途中で明るみになるのは、著者が幼少の頃からずっと「そもそも私の話など聞いてもらえないだろう」と思いながら育ってきたことである。語ることをめぐる抑圧にまみれた過去があればこそ、こうして「私の物語」と「カウンセリングの問題」は最後まで拮抗したのかもしれない。少なくとも評者にとってもっともおもしろかったのは、この拮抗だった。

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