『「恩恵の論理」と植民地-アメリカ植民地期フィリピンの教育とその遺制』岡田泰平(法政大学出版局)
植民地支配は、解放されて独立すれば終わりではない。それをもっとも如実に感じているのは、歴史研究者だろう。植民地時代を支配された側の視点で書くだけの充分な史料がないだけでなく、多くの史料が植民地支配を正当化するもので、客観的な歴史叙述をする妨げになっているからである。フィリピン人のように植民地支配を受けた者が、自分たちを主体的に描く歴史叙述に苦悩しているなかで、外国人が書くという行為を、著者岡田泰平はつぎのように「あとがき」冒頭で述べている。「外国人である私がフィリピン人を書き表すという本書の営為は、フィリピン人を傷つけるものであると感じている。あらゆる批判を受け止めていきたい」。
本書では、「アメリカ植民地期フィリピン社会を、教育という営為を中心に描きだす」。この「二一世紀の現在に直結する課題」を考察する端的な理由を、著者は「近代植民地主義の評価が現代世界における重要な問題として浮かび上がっているから」と述べている。だが、「フィリピンにおいては、アメリカ植民地主義がフィリピンの近代に対して積極的意義を持たなかったとする根本的な批判はほとんど見られない。むしろアメリカ植民地主義は肯定的に評価される」。それにたいして、著者はつぎのように「本書を通してこの課題に応えていきたい」と述べている。「このような対照のなかで、フィリピンと他の旧植民地諸国を比べ、植民地主義批判の有無に対してどのような価値判断を加えるべきかを問うことは、あまり意味がないだろう。むしろアメリカ植民地期フィリピンの研究について問われているのは、植民地主義に対する根本的な批判を許さない歴史構築のプロセスを解明することである」。
本書の目的は、つぎのようにまとめられている。「「市民的理念」と「恩恵の論理」が作りだした歴史を、植民地の民政地域における公立学校教育、すなわち植民地教育を考察することにより描きだすことにある。そのための作業として、越境という観点を重視しつつアメリカ史およびフィリピン史の両側面を検討する。そこで以下では、一九世紀末から二〇世紀初頭のアメリカ史、同時代の東南アジア史、そしてフィリピン史のなかにこの植民地社会を位置づける」。
本書は、序章、全7章、終章からなる。「序章 アメリカ植民地期フィリピンと植民地教育を問い直す」では、「フィリピン植民地研究の意義」を述べた後、「アメリカ史、東南アジア史、フィリピン史のなかに、アメリカ植民地期の植民地教育を位置づけ」る。その結果、著者は、つぎの2つの大きな課題を明らかにする。「第一は植民地主義とナショナリズムのあいだに生じた価値の逆転についてであり、第二は歴史認識の対立の場としての植民地社会についてである」。
本論前半の第1-4章では、植民地教育の「政策としての展開とその限界を論じる」。「第一章 アメリカ植民地主義と言語」では、「そもそも英語がなぜ植民地教育を担う言語となり、この初期の方針がなぜ継続したのかを問う」。「第二章 制度としての「恩恵」」では、「農村社会であったフィリピンにおける、植民地教育の制度上の限界と特徴に注目する」。「第三章 アメリカ人教員とフィリピン人教員」では、「アメリカ人教員とフィリピン人教員のあいだの差異と彼らの越境を論じる」。「第四章 フィリピン人教員層と市民教育」では、「非エリート教員の体験と教育実践から植民地教育を維持した内在的要因を考察する」。
後半の第5-7章では、「植民地教育やこの政策に象徴される「恩恵の論理」とは矛盾してしまう事象やそのような事象とともに生じた思想の断片に注目」する。「第五章 抗争する歴史-植民地の地理・歴史教育」では、「植民地教育の内と外でのフィリピン革命理解を論じる」。「第六章 フィリピン学校ストライキ論」では、「一九三〇年にマニラで生じた事件を取り上げる」。「第七章 反フィリピン人暴動とその帰結」では、「植民地教育が持つ「恩恵」という象徴性に目を向ける」。
そして、「終章 植民地主義は継続しているか-二一世紀のフィリピン社会とフィリピン人」では、「ポストコロニアル社会として現在のフィリピンを理解し、二一世紀のグローバル化から、アメリカ植民地主義の遺制を論じる」。その冒頭で、著者は、つぎの説明の後、「社会政策としての植民地教育は失敗だった」と結論している。「植民地教育は、フィリピンにおけるアメリカ植民地主義のもっとも優先度の高い政策のひとつであり、フィリピン社会の根本的な改革を目指した社会政策だった。しかし、植民地教育は、英語を広められない英語教育、十分には広がらない学校制度、民衆に市民性を植えつけられない「市民教育」、そしてアメリカ植民地主義の正当性を打ち立てられない地理・歴史教育といったものしか生みだせなかった」。また、「フィリピンのボス支配「カシキズム」の改革もなされなかった」。「つまり、「カシキズム」は、植民地初期と同様に植民地末期においても、民衆を抑圧するフィリピンの政治制度として残り続けた」。
終章最後の見出し「歴史認識としてのアメリカ植民地主義」では、「植民地主義が持つ作為性」を明らかにしている。「植民地教育が提示したのは、革新主義時代アメリカのユートピア的な社会像だった」とし、つぎのようにまとめている。「植民地教育が人種差別的な側面を持っていたとしても、この教育が示す社会像自体は人種を越えて想定されていた。ボス支配から解放された自作農が、順法意識に満ちた市民となり、国際的に通用する英語を用いて、「知的な世論」を形成することにより政治に参加していく。このような社会像を多くの教員が共有していたと言えよう」。
だが、著者は「教育関係者が残した文章や行政文書を時代の証言として扱い、そこから植民地教育を論じることは、結局このユートピア的社会像から植民地教育を評価してしまう。それは実態とは切り離されたものとならざるをえない」という根本問題を前提に、植民地教育を捉え直したと、つぎのように説明している。「この誤謬を避けるためには、植民地教育を、より幅広いテーマである近代植民地主義に関連づけ、アメリカ本土とフィリピンという空間的拡がりのなかで捉える必要があった。具体的には、教育が導入された戦争状況、学校の設置と維持、教員雇用制度、学校外の植民地社会、革命期にまでさかのぼるフィリピン史、教育における差別発言とそれに対する反発、反フィリピン人暴動と独立交渉といった歴史的文脈のなかに、植民地教育やそこに付随した「恩恵の論理」を位置づけなおした」。
その結果、見えてきた作為性とは、つぎのようなものであった。「差別発言に起因した植民地教育批判は、規律を守れない生徒という文脈に置き換えられ封じ込められた。在米フィリピン人が差別や暴力を受けるなかでの独立交渉では、白人による迫害がいわゆる「帰化不能外国人」の問題にすり替えられ、アメリカ人の人種観や差別意識は問題とならなかった。アメリカ植民地主義は、植民地主義が内包した人種差別へと批判の矛先が向かないように歴史を構築するプロセスをともなっており、そのプロセスのなかで「恩恵の論理」は保ち続けられた」。だが、その作為性を論じても、「この植民地主義に対して、その歴史的意義をも否定する根本的な批判を突きつけることはできない」。
では、アメリカ植民地主義は、どのようなフィリピン人をつくりだしたのか。著者は、つぎのように結論して、終章を閉じている。「根本的な批判の対象とはなりえない植民地主義でも、その植民地主義の歴史は差別された者の痛みをともなう。時には目を覆うような暴力事件や法治を否定するかに見える祝祭的な大衆行動を起こすとしても、ナショナリズムによって過去を美化するのではなく、過去がもたらす痛みに耐える現在のフィリピン人の姿をそこに見いだすことができる。アメリカ人を声高に糾弾するわけではないが彼らの差別意識や蔑視には敏感で、グローバル化のなかで他者に気遣いながら生きていく。アメリカ植民地期をも含むフィリピン史が作りだしたのはこのような人々であった」。
近年、欧米によるアフリカの奴隷貿易・奴隷制や植民地支配、日本による朝鮮の植民地支配などが問われている。日本の植民地支配でいえば、朝鮮と台湾とではずいぶん違う。著者は、朝鮮人BC級戦犯者の支援運動にかかわってきたことから、韓国の動向に詳しい。だが、台湾の親日派の動向を同様に知っていれば、本書はちょっと違ったものになっていたかもしれない。アメリカ人教員のフィリピンでの人種差別は、アメリカ人宣教師の朝鮮での人種差別とも、相通ずるものがある。比較していけばきりがない問題にたいして、著者はその遺制に注目した。本書は、「引き続く過去」の重みを感じさせる良書である。その重みを感じない旧植民地宗主国の政治家がいる国の歴史研究者だから、外国人として書けるものがある。「あらゆる批判を受け止めていきたい」のであるならば、フィリピン人が読みやすいように本書を英語に翻訳する必要がある。でなければ、「書かれる対象を傷つけること」もできず、建設的な議論ははじまらない。外国人研究者にとって、ナショナル・スタディーズの壁は厚い。