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『人間科学としての地球環境学-人とつながる自然・自然とつながる人』立本成文編著(京都通信社)

人間科学としての地球環境学-人とつながる自然・自然とつながる人

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 本書は、2001年に大学共同利用機関として設立された総合地球環境学研究所(地球研)の12年目の節目(初代所長6年間を引き継いだ編著者立本成文の退任)を記念して出版された。地球研のミッションである「人間と自然の相互作用環、つながりを解明して地球環境問題の解決に資すること」を考え直し、基本的な枠組みを示すために編まれた。


 また、本書は「諸般の事情で挫折した状態」になっている総合地球環境学の教本ないし副読本をつくろうという発想を受け継ぐものでもあるという。その教本『総合地球環境学』の初期の構想のひとつが、「跋」で紹介されている。3部(「第Ⅰ部 人間社会と自然とのかかわり」「第Ⅱ部 認識科学-環境変化と環境問題」「第Ⅲ部 設計科学-価値意識と実践・制作」)全11章からなる。本書は、その第Ⅰ部の「精神を受け継ぐもの」である。「総合地球環境学」とは、「序」の最後で「地球学、環境学、人間学を総合して、人類全体が、そして一人ひとりの人間が「良く生きる」ことに収斂していくことを目的としている」と説明されている。


 本書は、「独立」した9章からなり、編著者は「独立」の意味をつぎのように説明している。「各章はそれぞれ独自の音色を奏でる別個の曲である。しかし、それぞれが他の章と微妙に響きあって和音を奏でている。その通奏低音が「つながり」である」。「もっとも、各論考が共鳴しあっているのを聴きとるのは読者の自由な主体的な想像力、構想力、創造力であることも付け加えておかねばならない」。


 本書は部構成をとっていないが、大きく3つに分かれている。最初の3章は、「人が分析の中心にある環境学である」。すべて編著者の執筆である、つぎの4章(第4-7章)は、「地域を中心に環境問題を論じたエッセーで、地域から環境問題を見る際の空間的フレームづくりの試論である」。最後の2章(第8-9章)は、「結論的な章」で、「地球システムを考察するなかで、総合地球環境学構築のための方法論と「持続可能な寄生から未来可能な相利共生」というパラダイムシフトを提示している」。


 「自由な主体的な想像力、構想力、創造力」がないからなのだろう、「通奏低音」が聞きとれなく、「つながり」がよくわからなかったが、それでも学ぶこと、確認できたことが随所にあった。たとえば、「第二章 価値を問う-「関係価値」試論」(阿部健一)の「科学あるいはディシプリンの再編について」の節では、つぎの見出しを見ただけで地球研での議論が目に浮かんでくる。「現代社会の二つのベクトルがもたらす問題群と地球環境」「学際的研究の可能性と期待」「求められる強い統合性-戦術と戦略の構築」「地球環境問題に結集する多様なディシプリン」「近代科学の限界と地球環境学」。


 そして、つぎの節「ポスト・ノーマル・サイエンス-価値判断の時代」では、つぎのような見出しがつづく。「不確実性、予測不可能性を増す社会」「予測不可能な現代の問題群を扱う「科学」」「伝統的科学論の対極にある「価値観」の誕生」「トランスディシプリナリティと価値」。


 基礎科学としての「コア・サイエンス」から応用科学としての気象学や農学、その先の「専門的コンサルタント」までは、まだわかるが、予測不可能な現代の問題群を扱う「ポスト・ノーマル・サイエンス」になると、机上の問題としてしかわからない。そのあたりが、総合地球環境学の教本ないしは副読本つくりが挫折した原因のひとつであろうとも、考えてみた。本書第4-7章で論じられている学際的研究である地域研究も、教本をつくるのがむつかしいことは、ここ20年間余の試みから明らかだろう。「文献解釈を中心とする東洋史は地域研究に近いが、日本の地域研究の同じ仲間とみなしていない」ことを明らかにするためにも、教本つくりは重要だろう。だが、「ディシプリン」ということばも知らない大学院生に、「ポスト・ノーマル・サイエンス」を理解させる教本・副読本をつくることは至難だろう。それとも、そう考えること自体、時代遅れで、「ディシプリン」ということばも知らないから、「ポスト・ノーマル・サイエンス」は受け入れやすいと考えるべきなのだろうか。いずれにせよ、「総合地球環境学」という学問が、いかに今日の社会にとって重要であるかは、本書から伝わってきた。

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