『High and dry (はつ恋)』よしもとばなな(文春文庫)
「日本版『星の王子様』!」
私の学校は国際バカロレア(International Baccalaureate)というカリキュラムを導入している。「全人教育」を目指す画期的なプログラムだが、高校3年生の時点で必修課題となっているのがExtended Essayだ。欧米言語で4000語(日本語では約8000字)ほどの論文を書かなくてはならない。そのために、私は同様のものを日本人生徒に中学3年生から毎年課している。
新高校1年生の女子生徒が、今年度の課題として挑戦してみたいと夏休みに連絡してきたのが、よしもとばななの『High and dry (はつ恋)』だった。ばななのメジャーな作品は私も読んでいたが、これは知らなかったので、早速書店で買い求めた。
表紙を見た時は、児童文学かと思い、それならば扱うのは難しいかなという印象をもった。児童文学が論文に適していないというわけではない。実際、毎年のように灰谷健次郎や宮沢賢治の作品を扱う生徒がいるし、それは全く問題ない。ただ、三島由紀夫、大江健三郎、夏目漱石等の作品と比べると、テーマ設定が難しかったり、かなり高度な分析をしないと高得点に結びつかなかったりするので、積極的には薦めない。
しかし、内容は児童文学ではなかった。それどころか、子供の心を忘れかけた、または忘れてしまった大人にこそ読んでほしい作品だった。その意味においてこれは日本版『星の王子様』であると言えるかもしれない。このサンテグジュペリの作品を読んで、「象を飲み込んだうわばみ」が見えるようになった人もいるに違いない。そのような思いが込められているような気がする。
よしもとばななは、初期の頃から不思議な世界を描いてはいる。『ムーンライト・シャドウ』がそうであるし、『アムリタ』以降その傾向は顕著になる。だが、彼女の描く世界を「不思議」と感じてしまっては、既に子供の純粋さを失いつつあるのかもしれない。その世界は「不思議」でも何でもなく、ごくあたりまえなのかもしれないのだ。私たちは「大人」になるにつれ、子供の時に見えていたものが、見えなくなっていくのだろう。
主人公の夕子は14歳の中学生で、父親は頻繁にアメリカに仕事に行っていて留守がちなので、ほとんど母親と二人で暮らしている。ある日通っている絵画教室で、先生のキュウくん(二十代後半の青年)と一緒に「月下美人の植木のわきから、小さい人間が走り出て」いくのを目撃する。これは二人にしか見えなかった。
これをきっかけに二人は仲良くなっていくのだが、野良猫の「命の光が消え」る瞬間を一緒に目撃したり、お互いの過去を話し合い不思議な共感を抱いたりする。まるで同世代の恋人同士のように。ある日キュウくんは夕子を自分の母親の所に連れて行くが、彼女は木の彫り物を作っている。それは皆、彼女が見ている=見えている、森の精霊たちだ。キュウくんの母親の存在に癒された夕子は、また一つ成長し、この世界に感謝する。
キュウくんは純粋な心を持ち続けているために、美しい作品を作るものの、大人の世界とのギャップに心を痛めている。夕子は子どもの純粋な世界から少しずつ大人の世界を眺め始めている。ある意味、この二人は同じ位置にいる。肉体の年齢など、精神の世界から見れば微小なことである。二人が調和の世界へと(しかしそれは決して「予定調和」のような運命的なものではない)歩き始める所で、物語は終わる。
最後に現れる「絶対に不自然なことをしなければ、自然が全てのタイミングを見つけてくれるんだよ」という言葉は、科学万能主義に酔って自らの世界を破滅へと進めているように見える、我が人類への最高級の警句ではないだろうか。