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『シンボルの修辞学』 エトガー・ヴィント[著] 秋庭史典、加藤哲弘、金沢百枝、蜷川順子、松根伸治[訳] (晶文社)

シンボルの修辞学

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読む順序をまちがわねば、笑う図像学、きっと好きになる

絵の意味がわかる、と簡単に言うが、そもそも絵に、ちょうど小説や詩に意味を求められるのと同様のレヴェルで<意味>を求めることができるようになったのは、一代の歴史家・美術史家のヤーコプ・ブルクハルト(1818‐97)のお蔭だ。芸術史は芸術そのものとその種類に従った叙述であるべきで、芸術家たち自体の歴史であってはならない、としたし、同様に文化史も人間精神の形態学をめざすのでなければならないとした。

あくまで対象に即き、その記述に徹する大ブルクハルトの弟子が、今日のバロック論を出発させるバロック<対>ルネサンス概念の提起で名を残すハインリヒ・ヴェルフリンであり、さらにアーロイス・リーグル以下のいわゆるヴィーン派美術史学である。個々の作品よりもそうしたものに共通する「形式」を「数学のようなやり方で」抽象する論理的傾向が快い反面、作品を「現実経験のコンテクストから切り離した」という批判の対象になりうる。

そこをブルクハルト本流に戻って「美術的な視覚というものは、この一つの全体としての文化の中にあってはじめて必要な機能を果たす」としたのが、昨今再評価めざましいアビ・ヴァールブルクである。こうして美術史学が文化学(Kulturwissenschaft)、精神史と接続されていく今現在の西洋美術史学を、広く「メディア革命」という人文学の21世紀的再編成の大枠に取り込む上で必須の見取図と教養の内容が見えてくる。展望を与えてくれているのはエトガー・ヴィントの大著"The Eloquence of Symbols : Studies in Humanist Art"(1983、邦訳『シンボルの修辞学』)、その第2章「ヴァールブルクにおける<文化学>の概念と、美学に対するその意義」である。以上の紹介文中の引用の括弧はこの文章から引いてきたものだ。

ヴァールブルクがキリスト教美術の中に「古代の残存物」を発見していった画期的な仕事は、その研究所・図書館たるヴァールブルク文庫に流れ込み、所長エルヴィン・パノフスキーの"Studies in Iconology"(1939/1972;Paperback/邦訳『イコノロジー研究』ちくま学芸文庫〈上〉〈下〉)に象徴的な、プラトン主義哲学など異教テクストに対応する内容をルネサンス絵画に追求するイコノロジー(図像学)をうんだ。パノフスキーの名著はじめ、クリバンスキー、ザクスル、ウィットコウワー等々、ヴァールブルク図像学の精華が1970年代から一時集中的な邦訳紹介をみて、図像学者に非ずば美術史家に非ずという風さえあり、シェイクスピア劇はじめ文学作品にも図像学の成果を援用するのが一時大流行した(岩崎宗治氏の精妙な業績他)。

兎角、面白いように絵の<意味>が析出されてくる。以前、故ダニエル・アラスの『モナリザの秘密』で絵の意味がわかってきた時の快を我々は味わったが、アラスが極力素人向けに語ってくれたところを、思いきりプラトニズム、ネオプラトニズムの哲学を導入し援用しながらの説明で、とっかかり気骨は折れるが、少し辛抱して付き合う間に面白くて仕様がなくなる。その意味では、具体作に即して話が進む第3章「ドナテッロの<ユディット>」、4章「ボッティチェッリ<デレリッタ(見捨てられた女)>」から9章「キリスト者デモクリトス」までをまず一挙通読するのがよい。プラトンが芸術を理想国家から追放すべしとした真の理由を述べる第1章は、プラトンが意外やな専制君主にもてたいわれを分析する最終第10章と対応しており、オリゲネス異端説のルネサンスにおける復活を芸術に追う第5章と併せ、この三つの章は3~9章一気読みで具体的解読の妙味を知って後、帰ってくる方が良いと思う。

個人的にいえば第7章「グリューネヴァルトの寓意的肖像画」が出色に面白かった。大司教アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクが聖マウリティウスと語らう聖エラスムスとして自らを描き込んでもらっているが、後には聖ヒエロニムスとしての自画像も描いてもらっている。エラスムスとヒエロニムス。うっ、似ている。何かあるのか。何か、ある!

 こうした音声に基づく思考方法は、中世の伝統に深く根ざすもので、人文主義者たちにとりわけ訴えるものがあった。言葉遊びは彼らの職掌に含まれ、巧言も機知も語呂合わせが明敏に悟られなければ始まらない。メディチ(Medici)家は、その名前が乞食(mendici)に似ていたので、変わることなく乞食に親切だったと伝えられる。ミケランジェロ(Michelangelo)[天使ミカエルの意]は「アンジェル・ディヴィノ(Angel Divino)[神の天使]」と呼ばれ、アルベルト・ピオ(Alberto Pio)は「敬虔(pious)」であらざるをえず、エラスムスはモルス(Morus)[トマス・モア]のために『痴愚 Moria』を著したのである。こうした駄洒落の類から、愛や信頼や信仰を伝える深遠な表現にいたるまで幅広い。「名前に何があるかって?・・・名前でもローズが含まれていれば、甘く香るだろうよ」。こうした言葉が、その根底からどうしようもなく発する風合いを感じることができるのは、音声的関連づけの秘密の力を、その核心において知る者だけである。

 こうした「名前への信頼」があればこそ、アルブレヒトは聖エラスムスを自らの守護聖人に選んだにちがいない。こうした彼の信仰の音声的側面には、機知と言わないまでも、「創意」という要素がある――人文主義者の楽しみごとが、司教の気に障ろうはずはなかった。(pp.207-208)

キリスト教プラトン主義」の緻密難解の議論にこうして「笑い」の風穴があちこちあくところに、エトガー・ヴィント図像学の魅力がある。

ルネサンス期に語呂合わせが楽しまれていたことは、文学史家や社会史家に非常によく知られていることなので、ルネサンス美術史にその記述がないとなれば、そのことこそ注目に値する。私見の及ぶかぎり、語呂合わせを主題にした美術史的研究は現れていないのである。

本当だろうか。この本("The Eloquence of Symbols: Studies in Humanist Art")が1983年刊とすれば、ヴィントは何故ポール・バロルスキーの"Infinite Jest : Wit and Humor in Italian Renaissance Art"(1978、邦訳『とめどなく笑う-イタリア・ルネサンス美術における機知と滑稽』ありな書房)を知らずにいたかと、バロルスキー訳者のぼくは首をかしげたが、むろん御大、既にこの世にいなかった。『ヴァールブルク研究所紀要』の第1号(1937)に初出の一文であったので、そうなるとむしろ、1930年代好きな山口昌男道化学に通じる先駆的センスを感じる。この「笑い」は第9章「キリスト者デモクリトス」の、道化キリストの図像学で一層鮮明となる。むしろ、『とめどなく笑う』を訳す時にこの『シンボルの修辞学』のヴィントを知らなかった我が不明をこそ恥じるのだ。

五人共訳とはいかがなものか。五人もかかれば日本語にムラ多く、直訳体のこなれぬ訳文がつらいところも多いし、訳者の教養にもムラがある。五つのプラトン立体(Platonic solids)をいきなり五つの「プラトン的固体」と訳されては(p.42)、プラトニズムのイロハであるだけに、その先、実は結構シラけて読み出すしかない。二宮隆洋の編集なら、大目玉くらっているところだ。伝説的な碩学相手の訳業は、もちょっと死に物ぐるいでよかあないか。

16世紀の哲学と、そして美学に付き合ってきた。次は少し16世紀の機械学にいくつか触手をのばしてみよう。

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