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『破戒(改版)』島崎藤村(新潮文庫)

破戒

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「私たちは差別意識を持っているか?」

 私の勤務する国際学校では、 島崎藤村の『破戒』を毎年10年生(高校1年生)時に扱っている。同和問題に対する理解だけではなく、広く「差別」というものについて考えて欲しいからだ。その時に「あなたは自分の心の中に差別意識があると思いますか。」という質問を生徒にすることがある。  

 多くの生徒は差別意識がないと答える。もう一つ質問をする。「ではあなたが将来国際結婚をするとして、その相手が白人、黒人、アジア系等のどんな人であっても、あなたの両親や自分自身の態度に変化はありませんか。」。かなりの生徒が、変化はあるだろうと答える。ではそれはなぜなのか、そこに差別意識は無いのか、あるとしたらどこからそれはやって来たのか、等の議論へと移って行く。

 もしかしたら自分も差別意識を持っているかもしれないという自覚の下に、『破戒』を読んでいく。主人公の瀬川丑松は穢多(「えた」は差別用語であるが、作品中に使われている言葉である)である身分を隠し、小学校に勤務している。彼の父親が丑松のために転居して、身分を偽って暮らしていたために、近親者以外に丑松の正体を知るものはいない。その身分を隠せというのが、父親からの「戒め」なのである。

 冒頭は有名な「蓮華寺では下宿を兼ねた。」という文章で始まる。「蓮華寺」とはどこなのか? 「下宿を兼ね」るというのは、何の意味があるのか? 等の種々の疑問が湧いてくるし、「蓮華寺」についての説明も一切無い。これらの疑問によって、読者は一気に作品に引き込まれてしまう。

 続く場面で、丑松がこの下宿に急に引っ越してくる事になって、その原因は前の下宿から大日向という穢多の大尽が追い出されたことであることがわかる。そしてすぐに「丑松もまた穢多なのである。」という種明かしが行われる。ここで読者は丑松とある種の共犯者意識を獲得する。この秘密がいつどのようにして暴露されてしまうのか、という危惧と共に、緊張感に満ちた読みを求められる事になる。

 丑松には猪子蓮太郎という、心の師がいる。蓮太郎は自分が穢多であるということを公表しながら、差別撤廃のために戦っている。彼の新著の冒頭は「我れは穢多なり」である。これは、身分を隠して生きている丑松にとって、一種の理想の形だ。自分も蓮太郎のように勇気を持って告白して生きていきたい。しかし父親の戒めがあり、世間から捨てられる事への恐怖もある。この葛藤の中で丑松は煩悶する。

 その後、丑松の父は「忘れるな」という遺言を残し、事故死する。猪子蓮太郎と出合った丑松は、この人にだけは秘密を打ち明けようとするが、父の戒めのせいでできない。蓮太郎が応援していた市村弁護士の対立候補である高柳との確執のせいで、丑松の身分についての噂が流れる。蓮太郎の非業の死という悲劇も加わり、丑松は死の瀬戸際まで追い込まれる。

 丑松は最終的に皆に身分を告白し、教師を辞めることを決心する。とうとう父の戒めを破る、つまり「破戒」するのである。告白の仕方や、穢多という階級に対する認識の甘さ、解決方法を示していない、等の疑問点はあるが、丑松の苦しみは充分に伝わる。親友の銀之助の友情、将来の伴侶となる志保の愛情にささえられて、新天地に向う丑松だが、読者の心には何とも割り切れない気分が残る。そこに、差別の本質があるように見える。

 もちろんこの作品は「同和問題」を扱っているのだが、私たちはもっと広い意味での「差別」を認識する事ができるだろう。それは現代のあらゆる問題に繋がってくる。人種差別や民族差別はもちろんの事、学歴差別、宗教差別、能力差別、階級差別、男女差別……この世はあらゆる差別で出来上がっているといっても過言ではないように思えてくる。「区別」と「差別」は違う事をしっかりと捉え、種々の差別撤廃に真剣に取り組必要があるのは明瞭だ。その鍵となるのは差別する側(例え無意識的にであろうと)の自己認識だ。『破戒』はその意味において常に私たちを刺激してくれる作品であり続けるだろう。

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