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『根源の彼方に―グラマトロジーについて』 ジャック・デリダ (現代思潮社)

根源の彼方に・上

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根源の彼方に・下

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 デリダを一躍有名にした初期の代表作である。ロゴス中心主義批判とか、フォネー批判とか、原エクリチュールなど、デリダのおなじみのスローガンはこの本に登場する。

 現在、書店に並んでいる本は1996年の新版で、普通のカバーがかかっているが、1972年の初版は茶色いボール紙の箱に青いビニールの本が剥きだしてはいっていて、「グラマトロジーについて」というオリジナルの題名よりもはるかに大きく「根源の彼方に」という邦題が印刷されていた。このそっけない装丁が、「グラマトロジー」(文字学)という謎めいた言葉とあいまって、蠱惑的なオーラを放っていた。

 大学にはいって早々わたしはこの訳書に挑戦したが、何度読んでもさっぱりわからなかった。「グラマトロジー」という題名のもとになったゲルプの "A Study of Writing" を大学図書館で読もうとしたが、これもわけがわからなかった。

 今年になってゲルプの本を読んだ勢いで、デリダの本に30数年ぶりで再挑戦してみたが、今度はわかった。

 デリダプラトン以来の形而上学を転倒するとか大風呂敷を広げているが、本書の仮想敵はソシュールのようである。もちろん、ソシュールの背後には、当時隆盛をきわめていた構造主義があり、だから第二部ではルソーの前にレヴィ=ストロースをやっつけている。ソシュールを戴く構造主義に挑戦状をたたきつけ、ソシュールの音声中心主義をソシュール自身の論理を使ってひっくりかえしてみせたのが『グラマトロジーについて』という本だったのである。

 デリダのいわんとしていることは次の一節に尽きていると思う。デリダは音声的な差異(=離散的な音素)というモデルは文字から借用してきたと伏線を張った上で、こうたたみかける。

 差異はそれ自体では、また定義上、けっして感覚的な充溢ではなく、その必然性は、言語の生来音声的な本質という主張に矛盾する。それはまた同時に、表記的な<意味するもの>のいわゆる自然的な依存関係にも異を唱える。それはまさしく、言語の内的体系を規定する緒前提に逆らってソシュール自身がひきだす結論である。今や彼は、彼に文字言語エクリチュールを除去することを許していたまさにそのものを、つまり音を、そして音と意味との「自然的な絆」を、排除せざるを得ない。

 言葉の意味は内的な声に宿っているというのは錯覚で、実際は文字のような離散的な音素のくみあわせから生みだされる宙ぶらりんのものだというわけだ。この直観を手を変え品を変え、さまざまに変奏したのが本書の第一部である。

 本書の後のデリダは書き方がうまくなって、ややこしくからみあった文章の中に直観を巧妙によりこんでいくが、この時点ではまだ若書きなので直観が生な形でとりだせてしまうのである。

 第二部ではデリダの代名詞となった「脱構築」がぎこちなく素朴な形で実践されており、手の内が透けて見える。デリダも一日にしてデリダになったわけではなかったのだ。

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