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『どこか或る家』高橋たか子(講談社文芸文庫)

どこか或る家

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「気になる女性」

 女性にとってそのような男性が存在するものか分からないが、男にとっては不思議な存在となる女性がいるものだ。たまらなくその人に会いたい、会って色々な事を話してみたい。きっとその時間は素晴らしく甘美なものだろう。だが、一緒に暮らす事は絶対にできない。そう思わせる女性が時々いるのだ。私にとって高橋たか子はそんな作家だ。

 二十歳前後の頃、高橋和巳の妻が書いた作品という事で『空の果てまで』、『没落風景』、『誘惑者』等を読んだ時に、強烈な感情が湧き上がってきた。驚愕、嫉妬、恐怖、好奇心……そういった感情が渾然一体になったものだった。安部公房大江健三郎の作品を読んだ時とは全く違った形の感情だ。男にはこんな作品は絶対に書けないな、とも思った。

 素晴らしい「女流作家」が活躍した頃だった。大庭みな子、三枝和子倉橋由美子河野多恵子。皆特異な才能を持った作家だが、何よりも男には近寄りがたい「何か」を持っていた。それは血を流す女性という、「性」の本質にかかわるようなものだろうか。とにかく自分が体験した事のない(また永遠に体験できないだろうと思わせる)身体感覚がそこには存在した。

 そんな作家の一人である高橋たか子の自選エッセイ集『どこか或る家』には、作家自身の姿が見事に表れている。彼女は何度もフランスへ来る。「最愛のところへは一人で行きたいではないか。最愛の人とは一人で会うのが普通ではないか。」という。もちろん「人」とはフランスの事だ。フランスで高橋は、自己の精神的基盤となっていくキリスト教と出会い、精神的交流を深めていく。

 1981年に3ヶ月ほど、私は初めてパリに滞在したが、同じ地に彼女がいると思い、不思議な興奮にかられた。サン・シュルピスの教会でパイプオルガンの音を聞きながら、彼女もこの教会で似たような体験をしたのだろうなあ、と考えもした。秋に帰国して、その2年後に今度は結婚して妻とともにパリに来る事になったのだが、妻との出会いにも、彼女の作品が影響していた。文学少女ではなかったのに、妻は彼女の作品を面白いと言ってくれたのだ。

 精神の分岐点にさしかかると高橋たか子はフランスへ来る。そしてどんどん神の世界に惹かれていく。殆ど一人旅だ。さぞかし心細い事だろうと思うかもしれないが、彼女にとってはそれが心地良いようだ。通りに面していないホテルの部屋に一人で泊まる。窓から外を眺め、「パリの町の眺めの一点景として欠かせない」屋根の上に突き出ている「エントツ」を見ながら種々の想いを馳せる。外へ出て行くのではなく、自己の内部に下りて行く作家なのだ。そのために彼女にはフランスが必要なのだろう。

 「自分探しの旅」と言ってしまえば、余りにも俗な表現となってしまうが、やはり高橋たか子も旅を通して、自分の中へ不可逆的な歩みを続けているのだろう。故に「自分で小説を書くようになっても、私は小説を『生きている』のであった。」と書いている。彼女が神の世界に行き着いたのか、そこを通り抜けてまたどこかへ行くのかは分からない。しかし、気になる女性の半生を追体験する事は、妙に心が浮き立つものである。


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