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『限界芸術論』鶴見俊輔(ちくま学芸文庫)

限界芸術論

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「限界芸術とは何か?」

フランスのテレビで以下のようなコマーシャルが流れていた。若い娘が彼氏を始めて自宅に連れてきて、両親に紹介する。ぎこちない時間が過ぎていくが、父親が彼に「ところでご職業は何ですか?」と聞くところで、緊張が高まる。彼が「Artisant(職人)です」と答えると、両親が「それは素晴らしい。最高の仕事だ!」「お前は良い選択(彼の事)をしたな」と娘に言って、ハッピーエンドとなる。

 何のコマーシャルかというと「Artisant」の宣伝なのだ。それ位フランスでは「職人」というのは尊敬される職業でもある。ドイツにもマイスター制度(現在は衰退しているらしいが)があるのをご存知の方も多いだろう。このようなコマーシャルは果たして日本に存在しているだろうか。鶴見俊輔の『限界芸術論』は、そのような職人の世界よりも広い、「芸術と生活との境界線」にあたる作品を論じたものだ。

 鶴見は芸術が「楽しい記号」だとし、「それに接することがそのままたのしい経験となるような記号が芸術」だと言う。芸術とは、姿勢を正して緊張しながら鑑賞するものだと考えている多くの人にとって、何だか肩の力が抜けていくような安堵感を覚える定義だ。さらに「すべての子供は起きているあいだじゅう芸術家であるが、大人になると、酒をのんでいるあいだだけ芸術家になることにとどまる。」と言われると、妙に納得できる。

 「限界芸術」の例として、盆踊り、盆栽、生花、茶の湯、漫才、羽子板、書道等が挙げられているのは、分かりやすい。しかし、さらに日常生活の身ぶり、らくがき、ゴシップ、墓まいり、デモ等も数えられているのが面白い。身近な生活形態に「わび」、「さび」、「渋み」を含んだ芸術の概念が入り込んでいるのは、東洋でも類を見ない「無地と未完成を愛する国民的哲学の伝統」があるからだと主張する。確かに日本には昔から「省略の美学」が流れている。

 柳田国男柳宗悦宮沢賢治等についての論考があるのは当然だが、種々の大衆芸術を論じ、黒岩涙香三遊亭円朝鞍馬天狗を分析するのは非常に面白い。この柔らかくしなやかな思考が、鶴見の持ち味である。だが、題材が私たちの身近なものであり、文章が分かりやすいからと言って、作者の思想も緩やかなものであると思うのは間違いである。

 鶴見は言う。「ぼくは、日本の民衆のあたえられてきた大衆芸術が『低い』から、それらを、『より高い』ものである西洋の近代小説などによってオキカエることで、日本人の精神生活を近代化しようという思想に、うたがいを持つ。」これこそが、筆者が若き頃アメリカの知的環境の中で学んできた、健全なる批評の精神ではなかろうか。身近な生活の中から大切な思想を導き出す。その意味においては、『限界芸術論』は鶴見が描き出した「限界思想」であると言えるだろう。


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