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『魂の歌手』澤田展人(共同文化社)

魂の歌手

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「思想の香り」

1981年の7月、私は始めてパリの地を踏んだ。3ケ月余りフランス語学校へ通い帰国した、というより資金不足のため帰国せざるを得なかった。進学塾の講師をしながら、アテネ・フランセでフランス語を学び続けた。その時身体が一番覚えていたのは、視覚的風景よりもパリの「香り」だった。2年後に結婚してすぐにパリへ「帰って」来たのだが、その時地下鉄構内で嗅いだパリの香りに恍惚となったのを覚えている。

 プルーストのマドレーヌ効果を思い出すまでも無く、記憶がある種の「香り」と結びついていることは良くあるだろう。しかし、多くの小説が香りと結びついているわけではない。むしろそのような小説は少ないかもしれない。だが、澤田展人の作品空間には濃密な香りが漂っている。

 特に夕張に取材した『テラカン』には「炭鉱(やま)」の香りが強く感じられる。初夏の雨上がりの草いきれに錆の混じったような、不思議な亜空間の臭い。15歳まで炭鉱町で育った私には、その香りは親しいものだった。行間からそれが立ち上ってくるのである。筆者自身が夕張に住んだことがあるからという理由だけで、このような作品ができるとは思えない。澤田の感性の豊かさと、作品にこめる想いの強さのなせる業であろうか。

 『魂の歌手』とその続編とも言える『炎のわかれ』には、水と雪の香りが流れている。雪国の冬には間違いなく雪の香りがあるし、雪が消えてもそれは水の香りとなって日常を支配している。主人公はあまりにも純粋な精神を持っているために、周囲に容易に適応できない。または過剰適応してしまう。彼を想う家族の姿もせつない。『魂の歌手』はかすかな希望と共に終わるが『炎のわかれ』には一見希望は無い。だが救いはあるようだ。

 引きこもり、自殺、安楽死、コミュニケーション・ギャップ等の現代病とも言える要素が数多く見られるが、筆者はそれを意図したわけではないだろう。必死に生きるということは、必然的にそれらの問題とぶつかることだという人間の宿命が、主人公やその父親を通してあるがままに描かれているのだ。だが、「あるがまま」というのは最も苦しく最も効果的な表現方法でもあるだろう。

 『マフラー綺談』には1970年代の臭いが染みついている。人によってそれは変わって来るだろうが、恋と学生運動と秘密の香りを共有する者もいるはずだ。そして、過去の臭いには多少なりとも罪悪感が付き纏う。解決法があるわけではない。やはり自分たちなりの人生を歩いていくしかないのだ。それでも、過去をきちんと認識した後とその前とでは、未来のあり方が少し変わってくるかもしれない。

 これらの香りを総合すると、澤田展人の思想の水脈に行き着くのだろうか。時が経っても涸れるどころか、種々の流れを取り入れて澤田の水脈は益々大きな流れになっているようだ。そこから立ち上ってくる香りは、彼の出身である北海道の大地の象徴であり、一個の思考する存在としての作家を見事に表現しているようだ。


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