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『夢は書物にあり』出久根達郎(平凡社)

夢は書物にあり

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「本が学校!」

パリの「蚤の市」は有名だが、それとは別に至る所でガラクタ市が開かれることがある。「Brocante」と呼ばれるものだが、本当に「ガラクタ」が多い。家の倉庫から持って来たらしい鍋の蓋や、煤けたグラス、古食器類等、何でもある。古道具の趣味は無いので、余り興味を惹かれないのだが、本だけは違う。時間があれば、どうでも良い雑誌等でも、ちょっと頁を捲ってみたくなる。本好き人間の習性だろう。

 出久根達郎が古本屋出身の作家だということは知っていたので、『夢は書物にあり』というタイトルに惹かれた。筆者の本との面白い出会いが書かれているのだろうと思ったからだ。期待ははずれなかった。中学を出て古書店に勤め始めた筆者ならではの、興味深い話が満載だ。

 例えば、書名を変えて再出版の話。筆者は最近黒頭巾著の『変態處世術』という本を買ったという。同著者の『法網を潜る人々』が面白かったからだ。しかし読んで行くと、覚えがあるので、比較してみると同じ本であった。時代の変化に応じて多少改変してあるが、間違いなく同じ本だ。面白いのは、この本の内容自体が、ありとあらゆる詐欺の手口を物語風に書いてあることだ。この詐欺のような話も、本の中に出てくるのだろうか。

 『フランダースの犬』の話も驚く。筆者が若い時、この作品の結末に関し友人と話していた。救いのない話だと主張する友人に対し、出久根は「犬は哀れだが、まず、めでたしめでたしの話」だと言う。おかしい。何かが食い違っている。出久根が読んだ池田宣政の訳では、パトラッシュ(池田訳ではパトリオ)もネルロも死なずに助かり、ネルロはパリへ絵の勉強に行き、パトラッシュは村で少年の帰りを待つ事になるというのだ!

 ドラマの「小公女セイラ」が評判になっているようだが、『小公子』を読んだ人も多いだろう。主人公のセドリックはアメリカで野球に夢中だったが、明治時代に日本語に訳された時に「野球」という単語はなかったそうだ。従って「ベース・ボール」となる。それは良いのだが、「二ツ外れ」という訳語がある。筆者は多分「ツーアウト」のことだろうと推測し、訳者の若松賤子は野球を見ないで訳していたのではないかと考える。時代性が出ていて面白い。

 鷗外の論文の話も楽しい。「壁湿説」という論文は「家屋は本と吾人の健康を守護し、権利を保全する目的を以て成れるものなり」という出だしなので、本と人間の健康の話だと思って読んで行くと、一向に書物が出てこない。何と「本と」は「もともと」と読ませるらしいというのだ。これは中々読めないのではないか。気づいた時には、怒るよりも「参った!」と思ったに違いない。

 鷗外に関してはこの他にも面白い話が沢山紹介されている。『源氏物語』の柏木と女三宮の話も興味深い。それにしても、このような教養の持ち主が中学しか出ていないことは象徴的である。教養は学校で身につけるものではなく、日常生活や読書による所が大きい事を示している。ところが教師である私にとっては、どうやって学校の授業で若者たちに少しでも教養を身につけてもらえるだろうかという、大切な課題がある。共通のヒントはやはり読書であろう。「本が学校である」と言われて読書をしてきた出久根の経験を生かしたいものだ。


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