『初夜』イアン・マキューアン 松村潔訳(新潮社)
「乗り遅れた60年代」
これだけ主人公をおちょくっておいて、しっかり感動的な小説として仕上げてしまうのだからたいしたものだ。原題はOn Chesil Beachだが、邦訳は『初夜』。このややストレートな邦題が示す通り、エドワードとフローレンスの初夜の出来事を描いた作品である。焦点となるのは、ふたりの性。
エドワードはちょっと血の気の多いところもあるけれど、大学では歴史を学んだごくふつうの青年。十代のはじめに性にめざめてからは、マスターベーションを欠かしたことがない。しかし、初夜を前にして、なんと一週間も我慢した、という。何しろ、フローレンスは堅い女性なのである。エドワードはにじり寄るように進むしかなかった。10月にはじめて彼女の裸の胸を目撃。だが、手で触れることを許されたのは12月19日。実に2ヶ月かかった。2月にはじめてのキス。しかし、乳首に触れるまでにはさらに3ヶ月。それだって唇でちょっとさわった程度。下手に先走ると、何ヶ月もの慎重な努力が水の泡となることは経験上わかっていた。『蜜の味』(A Taste of Honey)なる映画を見に行ったときに、劇場で思わずフローレンスの手をとって自分の股間にあててしまったのは大失敗だった。彼女は完全に引いた。あのために何週間分、逆戻りしたことか…。
一方のフローレンス。実業家の父と大学教師の母とを持つ彼女は、音楽家志望で友人と弦楽四重奏団を作っている。グループではリーダー格。音楽のことになると、実に冷静かつ的確な判断を下すことができる。しかし、男性については未経験。興味もなかった。いや、相手を好きにはなる。エドワードを愛しているのは間違いない。でも、身体のことは耐え難い。エドワードの望みをかなえるように、少しずつ門戸を開いてきたけど、エドワードはもっと、もっと、と言ってくる。どうしても嫌なのだ。自分はいったいどうしたらいいのか。
そしていよいよ初夜。フローレンスは覚悟を決める。食事もそこそこに彼女は自らエドワードの手をとってベッドへと導く。「おヨソ」用の靴を自分で脱ぎ捨てる。ところがここで事件が起きる。フローレンスを抱き寄せたエドワードは、空いている方の手でそのワンピのジッパーをはずそうとするのだが、これが片手ではどうもうまくいかない。しかし、もう一方の手はフローレンスを抱き寄せるのに使ってしまっている。フローレンスは内心思う、あたしが助けてあげるべきかしら…、と。でも、それはまずいわ、というのが慎み深い彼女の判断だった。エドワードは片手で孤軍奮闘、ついにジッパーは布地を噛んで、ドレスは永遠に脱げなくなってしまった。
しかし、エドワードは事を進める。その手が伸びてくる。小説家の描写も徹底的に「じらし」の戦術を使う。原文も引いておこう。文末の句が実に効いている。
...she could imagine, she could see, precisely his
long, curving thumb in the blue gloom under her
dress, lying patiently like a siege engine beyond
the city walls, the well-trimmed nail just brushing
the cream silk puckered in tiny swags along the
line of the lacy trim, and touching too -- she was
certain of this, she felt it clearly -- a stray hair
curling free.
いや、実際に見えるような気がした。城壁の外で待ちかまえている攻城兵器みたいに、それは忍耐強くじっと待っていた。きちんと手入れされた爪が、レースの縁取りに沿って小さなひだをつくっているクリーム色のシルクをかすめ、はみ出している縮れ毛にふれていた――それは間違いなかった。感触ではっきりそうとわかった。
エロチックと言うよりはコミックな場面かもしれないが、小説ではここがひとつの転機となる。この一本の毛の感触を通し、彼女ははじめて自分の欲望に目覚めかけるのである。これであたしもみんなと同じようになれるのかしら…そんな想いをフローレンスは抱く。
次のステップである。いよいよ彼の硬くなったモノの感触。でも、不思議と嫌ではない。まだ見るのはぞっとしないけど、今までのような気持ち悪さはない。彼女の思いはひとつになる。とにかく、彼に満足を与えたい。そうすることで、彼にもっと深く愛されたい。彼女は自らの手で彼のモノを導く。そういうところで、いちいち、気の利いた一節が挿入されているのがマキューアンの魅力だ。
She was pleased with herself for remembering thatthe red manual advised that it was perfectly
acceptable for the bride to 'guide the man in.'
花嫁が「男性に手を添えて導き入れる」のはまったく差し支えないことである、とあの赤い手引き書に書いてあったが、その助言を覚えていたのがわれながらうれしかった。
しかし、運命は過酷なものだった。彼女は心に決めたとおり、進もうとする。こんな妙なもの、犬や馬についているならまだしも、人間の大人にあるなんて信じられないわ、などとの想いを抱きつつも、彼のモノをおっかなびっくり、しかし最大限の注意を払って自分へと運ぶ。指でかるくさすったりしながら。しかし、これが仇となった。とくに、おっかなびっくりの手つきは致命的だ。あの「一週間も我慢」もよくなかった…。
というのが、この小説のメインプロットである。『人のセックスを笑うな』という小説があったが、『初夜』の「性」は、あきらかに笑いが先に立っている。それにしても、今時、こんな「恥ずかしいセックス」はないだろう、と思う人もいるかもしれないが、まさにそこがこの作品のポイントなのだ。作品の舞台は1960年代の初頭。作品でまちがいなく意識されているのは、フィリップ・ラーキンの有名な「驚異の年」('Annus Mirabilis')という詩だろう。次のように始まる作品だ。
Sexual intercourse began
In nineteen sixty-three
(Which was rather late for me)--
Between the end of the Chatterley ban
And the Beatles' first LP.
セックスは1963年にはじまった、という。そこが分水嶺で、その以前には『チャタレー夫人の恋人』の発禁があり、その後にはビートルズのデビューがあった。カッコの中の台詞がおもしろい―「僕にはちょっと遅すぎた」というのだ。つまり、1922年生まれのラーキンは、「60年代」には乗り遅れてしまったのである。
60年代に起きたさまざまな「解放」の中でも、とりわけ大事だったのは、性の抑圧からの解放だった。そのことをめぐる悲喜こもごもは、60年代に青春を送ったひとたちにより、嫌というほど語られてきた。しかし、同時にそこには「乗り遅れた」人たちがいた。そのちょっと前に青春を送ってしまった人たち。ちょっと前の常識から結局、自由になれなかった人たち。
おそらく文学とほんとうに馴染みがいいのは、この「乗り遅れ」の感覚ではないだろうか。人間や人生を、お祭り騒ぎの騒音の中でではなく、地味に、静かに、微細さのうちにとらえるのは文学の得意技のひとつ。『初夜』が小説として立ち上がってくるのも、この「乗り遅れた」苦みにフォーカスをあてるときである。エドワードとフローレンスの何ともいじましい「初夜」は、ふたりの一生に大きな影響を与えることになるのだが、そんなことがあんな風にありえたのも、まさに「解放」前夜だからこそなのだ。
小説は、初夜の場面を中心に描きながらも、あちこちにフラッシュバックを挿入していく。ときに「やりすぎではないか?」と思わせるほど悪のりした技巧を見せるマキューアンの筆裁きだが、フラッシュバックされる情景で重いもの、苦いもの、悲しいものを書き込む際の抑制の案配はさすがである。おかげで、表の喜劇と裏の悲劇が、クライマックスでついに合流して、何とも言えない余韻を残す作品となっている。こんな訳しにくい技巧派小説をきちんと訳した訳者も立派だと思う。