『現代詩文庫 宗左近詩集』宗左近(思潮社)
「ヴァーチャルから実体へ」
宗左近が逝って4年になる。東京大空襲の時に、手を離したために母を死なせてしまい、自己への叱咤のために「そうさ、こんちくしょう!」と言ったのがペンネームの由来だというのは有名だ。だがそんなエピソードなどどうでも良い。それは詩人のヴァーチャルな姿であっても、実体ではない。詩人の実体は詩自身の中にこそ求めるべきだろう。
世の中がヴァーチャルなもので覆われていく。「ヴァーチャル」という言葉自体も認識できないうちに。若者が(最近は年配者も)「切れる」のは、そんな得体の知れない世界から、本物の血が流れる実世界へ回帰したい欲求からではないか。例え本人に実世界の記憶がなくとも、はるか昔の事ではないのだから、間接的に知っているだろう。いや、記憶が無いからこそ、どこかで憧れを持っているのかもしれない。
宗左近の詩は、下手な解釈を許さない硬質さがある。炎に終われて逃げる時、
走った
走ったから走ったのだ
さきに母が走ったのではない
さきにわたしが走ったのではない
燃えている鞭みたいなものがきびしく鳴って
走ったから走ったのだ
と書く(「炎の海」その夜13)。「逃げるために走ったのだ」ではなく「走ったから走ったのだ」。そこにはcauseはなくeffetのみがある。理由など考える前に走らなくては生き延びられなかったのだ。
ふと気がつくと握っていたはずの母の手がない。
母よ
あなたは
つっぷして倒れている
夏蜜柑のような顔を
炎えている
枯れた夏蜜柑の枝のような右手を
炎えている
もはや
炎えている
(同上)
作者は「炎の一本道」の上で「跳ねて」いる。「一本の赤い釘となって跳ねて」いる。母の肉体と作者の精神は炎に焼かれてしまう。これ以上の存在感があるだろうか。
坐らなければ椅子はない
動かなければ床はない
きしまなければ部屋はない
部屋がなければ不安はない
(「椅子」)
と、戦後の詩は存在への不安を詠みながらも、理路整然としているように見える。だが次の一節はこうなる。
男はしがみついている
もはやなくなってしまっているから
しがみついているのか
しがみついているから
もはやなくなってしまっているのか
ここでもやはりcauseは分らないながらも、強烈なeffetが説得力を持って存在する。これは人の魂だろうか。それとも一人の人間に宿る妄想だろうか。何はともあれ、そこにある種の「状態」が厳然として存在するのは変わらない。それは人そのものであり、また一つの人生の姿でもある。
こういった精神体験を私たちは忘れつつある。映像の素晴らしさも理解できるが、やはり文字の喚起する創造力には及ばない。パソコンの前に坐り続け、受動的に映像を受け取り続ける世代においてこそ、詩は新たな力を持つのではないだろうか。