『ケプラー疑惑―ティコ・ブラーエの死の謎と盗まれた観測記録』 ジョシュア・ギルダー&アン=リー・ギルダー (地人書館)
1601年10月24日、チコ・ブラーエは亡命先のプラハで54歳で急死した。死因は尿毒症か尿路感染症とされてきたが、本書は水銀製剤による毒殺であり、下手人は共同研究者だったケプラーだと告発している。
400年もたってなぜそんな話が出てきたのだろうか。発端は1991年にさかのぼる。ベルリンの壁崩壊後、チェコ・スロバキア新政府はブラーエの亡骸が眠る教会でブラーエを記念する式典を挙行し、出席したデンマーク大使にブラーエの口髭の一部を贈呈した。口髭はデンマークに持ち帰られ、死の直後からささやかれていた毒殺説を検証するために微量元素の検査をおこったところ、高濃度の水銀が検出された。
この結果だけだったらまだ毒殺とは断定できない。ブラーエは錬金術にも造詣が深く、塩基性硫酸第二水銀を万能薬として製造していたので、知らず知らずのうちに水銀が体内に蓄積していた可能性があるし、また死の原因となった尿路感染症を治療するために水銀製剤を過剰摂取した可能性も否定できないからだ。
ところが1996年になって最新のPIXE(粒子線励起X染分析)という技術によってブラーエの頭髪を検査したところ、死の13時間前に大量の水銀を摂取していることが判明した。水銀蓄積説はまちがっていたわけである。しかも鉄とカルシュウムの濃度も高まっていることもわかった。
水銀と鉄を含む薬剤はブラーエの錬金術工房に存在していた。不溶性の塩基性硫酸第二水銀を製造する過程で作られる可溶性の硫酸第二水銀溶液で、それには還元剤として使われた鉄イオンが含まれていた。
練達の錬金術師だったブラーエが猛毒とわかっている硫酸第二水銀溶液を誤飲するとは考えにくい。まして進んで飲むなどということはないだろう。
ブラーエは10月13日の夜、夕食会から帰ってから尿の出ない病気で倒れ、苦しんだあげく11日後に亡くなっている。著者は13日の夕食会の前と死の前夜の23日に硫酸第二水銀溶液を混入したミルクを飲まされたのだと推理している。
毒殺かどうかはともかくとして、なぜケプラーが犯人なのだろうか。
著者があげる理由は三つに要約できるだろう。
第一にデンマークから亡命後、ブラーエのもとからは助手が逃げだしてしまい、この時期ブラーエのもとには新参者のケプラーしか残っていなかったからである。
第二にブラーエの死によって一番得をしたのはケプラーだからである。ケプラーは神聖ローマ帝国数学官という地位をブラーエから引きついだばかりか、ブラーエが40年以上かけて蓄積した精密な天体観測データを横領し、ケプラーの三法則を発見して後世に名を残した。
第三にケプラーは悲惨な生い立ちで性格がねじ曲がり、何をするかわからない男だったからである。
なんの予備知識もなしに本書を読んでいたら著者の推理を受けいれていたかもしれないが、ケストラーの本やケプラーの『宇宙の神秘』を読んでいたので相当無理のある結論のように感じた。
確かに結果としてケプラーは得をしたが、当時はブラーエ家の食客にすぎず、帝国数学官になれるという保証はなかった。『宇宙の神秘』を上梓していたものの同書を評価してくれたのはブラーエと恩師のメストリンだけで、どこにも就職の口はなかった。帝国数学官に抜擢されなかったら、ブラーエを失ったケプラーは家族をかかえて路頭に迷うところだったのである。
ブラーエをよく描きすぎている点も気になった。著者はブラーエの宇宙モデルを独創的と評価し、同様のモデルを発表したウルススを剽窃と決めつけているが、ブラーエのモデルはコペルニクスが一度検討して捨てた折衷案にすぎず、独創的でもなんでもなかった。ウルススが独立に考えだした可能性は十分あるし、そう解釈する人の方が多いのではないか。
ケプラーが性格的に問題のある人物なのは確かだが、損と知りつつプロテスタントの信仰を守りつづけた頑固さといい、ガリレイに対する無防備な人のよさといい、どうも憎めないのである。完全犯罪をたくらむにしては不器用で正直すぎると感じるのはわたしだけだろうか。
本書はなかなかおもしろい歴史推理だったが、憶測の域を出ていないと思う。