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『先生とわたし』四方田犬彦(新潮文庫)

先生とわたし

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 日本に一時帰国して、地方を回ってきた。驚かされるのはどこに行っても水田があることだ。日本は水と緑の国であり、基本は農業であると再認識させられた。そんな中、一冊の本を持ち歩いていた。ニューアカデミズムの旗手と言われている四方田犬彦の『先生とわたし』だ。ちょっと本が好きな人ならば夏目漱石の『こころ』の第一章「先生と私」を思い出すことだろう。

 確かにこの作品は、作者と由良君美という「先生」との出会いを描いている。『こころ』では「先生」は「私」に負の精神的財産を残して自殺してしまう。四方田の「先生」は61歳で病死するが、ある意味緩慢な自殺と言えないこともない。エッセイ、小説、伝記等どのジャンルにも収まらないようなこの作品の形式は、先生と弟子がたどってきた苦難の道をそのまま表しているようだ。

 最初に気づくのは、プロローグに現れる由良君美の端正な姿の写真だ。甘いマスクに、女性ならば皆うっとりとするのではないだろうかと思わせる。また、彼の博識ぶりも凄い。東大英文学のゼミの選抜問題に出したのが、赤塚不二夫の漫画である。今でこそ大学入試に漫画が出たりするのは珍しいことではなくなったが、1970年代初頭にこんな問題を出す人がいたとは。

 ゼミでは英文学だけではなく、神話、日本文学、絵画、詩、SF、映画と数多くのジャンルを縦横無尽に論じる。英語の新刊書をどんどん学生に紹介し、学生のどんな質問に対しても一家言を持ち、答える。こう書いてくるといかにも理想の「先生」のように見える。だが、由良はもっと複雑な存在なようだ。非東大出身者が東大の教師を勤めることは、想像以上にストレスの溜まることなのだろう。彼が時として異状とも思える「噴火」を見せたのは、学問上の葛藤だけが理由ではない。

 四方田は由良の精神的背景を、彼の両親に求める。父親も学者だったが、由良同様異常なまでの書籍収集癖がある。優秀ではあったが、ヒットラーを擁護し戦争を推進したため、戦後学問的には不遇であった。由良も駒場の英語科の主任教授に任命されたあたりから、酒量が増え、奇矯な行動をとるようになる。筆者の論文集に対して「すべてデタラメ」と葉書を送ったりする。突然筆者を殴ったこともある。そして、東大を退官した翌年、食道癌で急逝する。

 だが、この作品は由良の伝記ではない。由良君美という一人の学者の姿を紹介すると共に、四方田自身の由良との関係を問い直し、ひいては教育者としての自分に問いかけている。「はたして人よりも若干の知識をもっているというだけで、それを職業として生計を立てていてよいのだろうか」。スタイナーは『師の教え』でニーチェの詩の一節を引く。「師とは過ちを犯しやすいものである」。これを師である由良への言葉ではなく、自戒として四方田は認識している。

 四方田の評論家活動も、特定のジャンルを超えた内容となっている。ある意味由良の手法であるとも言えるだろう。四方田は、由良の根底にあったのは「詩」であり、それが「哲学と幸福な関係」にあったとする。これは学問の原点と言えるだろう。そして、かつてはこのような知識が古典的教養として学問の前提にあった。それがないがしろにされている現状に対する警句こそ、作者の目的であるようだ。


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