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『私にとっての20世紀』加藤周一(岩波書店)

私にとっての20世紀

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「20世紀を理解するために」

 年の瀬は一年を振り返る事が多い。ついでに前世紀を振り返ってみるのも悪くない。歴史が「現在」である時はその姿を現しにくいが、それが「過去」となってきた時に、初めて我々にも理解できる形で見えてくる。もちろんそれでは少々遅いのだが、それとても凡人たる我々には簡単なことではない。慧眼の士の力を借りて、ようやく視界が開けてくる。

 加藤周一の『私にとっての20世紀』はそのための良い道標となる。戦争を体験した加藤は、戦争に無条件に反対する。「私の友達を殺す理由、殺しを正当化するような理由をそう簡単に見つけることはできない。だから、戦争反対ということになるのです。」偶然友人は死に、偶然加藤は生き残った。その友人を裏切ることだけはしたくない。一見個人的な理由に見えるが、子どもを殺す戦争は悪い、故に反対する、と彼が述べる時、それは普遍性を持つ。

 日本の国民が「民主主義に対してあまり熱心では」なく、戦争批判もしないことについて、現在が大衆的な意味で「戦前的な状況」であると分析する。新ガイドライン法案を成立させ、その先には憲法改正と徴兵が待っている。ヨーロッパ追随ではなく日本が独自の道をたどるきっかけの一つは「軍事力に頼らないこと」である。そして日本が他の工業国よりも環境破壊に考慮して、国際的な「南北関係にみられる豊かな工業国と貧しい南の非工業国、その格差を縮めることに経済力を使えば、新しい形の経済的な大国ということに」なると主張する。

 大震災と原発事故という二重の課題を抱えている日本にとって、重要な提言に思える。それを実現するためには、過去と向き合おうとしない姿勢を変えるべきであり、日本にしっかりと根付かなかった「自分自身の意見を主張することと、ほかの個人の意見を尊重する態度」が大切だと言う。

 知識人はそこでどのような役割を果たすべきなのか。ヴェトナム戦争時におけるカナダでの教職体験から、戦争批判の先頭に立つのは自然科学者、文学者、それに若干の社会学者であって、国際関係論者、歴史学者政治学者たちは最後になったと証言する。戦争に反対する目的においては「その目的を達成するために科学的知識を、客観的知識を利用すべきであって、科学的知識のために倫理的判断を犠牲にすべきではない。」と述べる。「専門化が進んでいけばいくほど判断停止になる。判断停止は、政治社会問題については現状維持に傾く、だから保守主義が強くなる。」科学者である加藤故の発言であるが、今回の原発事故を巡る知識人の発言にもあてはめることができそうだ。

 社会主義の分析も非常に興味深い。ソ連の崩壊の後に生まれた現在の若者たちにとっては、ユーゴスラビアの内戦についての考察も含め、貴重な資料となっている。また加藤は「ナショナリズムはなくならない」と断言する。問題は「ナショナリズムと、広い視野からの国際的な協力関係を作り上げていく動きとはどういうふうに融和できるか」ということだ。そのために必要なのは、人種、宗教、言語等の要素を含む「それぞれのナショナリズムを平等に扱うこと」だ。

 文学の役割は、人生や社会の「目的を決める」ことだと言う。そして「その目的を達成するための手段は技術が提供」する。また文学は「価値体系を転換する事業」だとも言う。「感覚的直裁的なある経験を通じて価値の転換を行う」のが文学の特徴だとも。ならば、人生の価値を見つけられず、孤独に苦しむ人々が激増しているこの21世紀初頭で、映像文化の反乱による危機が叫ばれながらも、人々に価値を発見させてくれるものの一つが文学であるのかもしれない。今世紀のための課題と希望の書である。


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