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『稲垣足穂』稲垣足穂(筑摩書房)

稲垣足穂

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「星とヒコーキをこよなく愛した男」

 稲垣足穂の作品と出会ったのは高校生の頃だから、かなり前になる。しかし、時々無性にあの独特の文章に触れたくなる。疲れた時や、雑然とした世の中に倦んだ時など最適だ。特に『一千一秒物語』などは、大震災や原発事故によって疲弊しきった人々の心にとって、一服の清涼剤となるのではなかろうか。

 冬空は星がきれいだ。タルホは月や星との不思議な物語を紡ぎ出す。メルヘンの一種になるのだろうが、「メルヘン」というイメージはない。月と喧嘩したり、星を食べたり、荒唐無稽な話が多く、意味も分からない。強いて言えば、夢の中での出来事に似ているだろう。夢で起きることは、その時は普通だと思っていても、後から考えると不可思議なことが多いものだ。しかし、夢の中ではそれは何の不思議さもなく進行する。タルホの物語はそんな感じだ。

 次の一篇が全てを語っている。

A PUZZLE

— ツキヨノバンニチョウチョウガトンボニナッタ

— え?

— トンボノハナカンダカイ

— なんだって?

— ハナカミデサカナヲツッタカイ

— なに なんだって?

— ワカラナイノガネウチダトサ

 タルホはヒコーキと星に夢中だった。『横寺日記』には星座への想いが満ちている。「花を愛するのに植物学は不要である。昆虫に対してもその通り。天体にあってはいっそうその通りでなかろうか?」道の途中で星を見上げて飽きないタルホの姿が髣髴としてくる。博識ながらも、純粋に星との交歓を楽しむ姿でもある。「ただ綺麗なものとして花を見るのと、何属何科においてそれを観るのと、どっちが正しいのであろう?」「吾々の純粋経験はもともと翻訳不可能なものでないのか。どうせこうであるなら、ひと通りのことは心得た上で、『知識とは見掛けのものに対する説明に過ぎぬ』と思う方が賢明かもしれぬ。」

 芸術を論じても潔い。芸術至上主義を標榜し、高踏派であることを宣言する。「われらは何のためにというさもしいことで成立している空間ではなく、それはただそれだけであることで無限に開展してゆく時間であるからしていつにおいても芸術至上主義である。しかもわれらの望みは昇天にあるからしてあくまで高踏派である。」タルホはこれを日本人の美学とも結びつけている。「能楽、芝居、清元、角力」から「お寺の塀のそばのさむらいたちの切り合い」まで

「耽美の心意気」だと言う。

 『少年愛の美学』のA感覚V感覚という語彙も懐かしい。輪郭の明確なものも、ちょっとオブラートに包むだけで、神秘性を獲得する。女性も宗教も皆そうやって神秘性を保ってきたのではなかったか。それが何でもあるがままに描かれるようになってきて、物事が明確になったかというと、そうではない。却って表面が明瞭になった分、本質が見えにくくなってきている。

 タルホの文学は曖昧かもしれないし、中途半端だと考える人もいるだろう。だが、「虚実皮膜論」を持ち出すまでもなく、人や物事の真の姿は、二元論の境界にある仄かな、かそけき光の中に存在するのではなかろうか。タルホはそんな世界の住人なのだ。


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