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『天安門』リービ英雄(講談社文芸文庫)

天安門

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「「かれ」は何者なのか?」

 リービ英雄はアメリカ人だが、長年日本に住んで日本語で作品を書いていることは知っていた。だが、彼が少年期に台湾に住んでいたことは知らなかった。『天安門』は5つの短編が載っている作品集だ。私小説的作品が多いが、種々の意味で非常に興味深い。アメリカ国籍を持ち、今は日本に住んでいる「かれ」が、中国を訪れる。少年期を過ごした台湾にとって「大陸」は特別な存在だ。「かれ」の意識は、アメリカ、日本、台湾、中国を彷徨い出す。

 「越境」という言葉で語られることの多い作者だが、越える境は国や言葉だけではないだろう。「かれ」と自己の境、過去と現在の境、事実と虚構の境、エッセイと小説の境、数々の境をリービ英雄は越えていくようだ。

 「天安門」で台湾時代の回想が描かれる。後ほど父が再婚することになる女性との出会い。紹介された瞬間に「かれ」は、お母さんはどこにいるのかと気になる。その後母を探しに行き、母の寝室の「フスマにノックしようと」するのだが「先に黒髪の女と握手をさせられた指がフスマに当たる直前に、かれがその手をひいて」しまう。これは事実だろうか。大きくなった「かれ」が母に対する罪悪感により作り出した偽の記憶ではないのか。だがそれも一つの「真実」ではあるだろう。事実は一つしかないが、真実はいくらでもあるのだから。

 「光復大陸」、大陸を回復せよ、と聞いて育った「かれ」が大陸へ行き、毛沢東の遺体を見る。父の所に来ていた老将軍達を島に追いやった毛主席。老人達が焦がれていた大陸を我が物にした男。「光復大陸!」の30年後にやっと到達した大陸の象徴。見物人の流れを滞らせて「かれ」は「マオ」と叫ぶ。「責めているとも、乞うているともつかない、英語にも北京語にもなっていない、単なる名前を叫びだした。」「かれ」の半生の凝縮である。

 「満州エクスプレス」では「安部先生」の遺族と、安部先生がかつて満州で暮らした家を探す旅が描かれる。かつて安部先生の芝居の翻訳を手伝ったのが縁である。もちろん安部先生は、安部公房のことである。安部先生の弟が、かつて住んでいた家を発見した後、遺族は日本へ戻る。しかし、「かれ」はカメラマンと共に『終わりし道の標べに』の冒頭に現れる「まがりくねった粘土塀」を探しに行く。不機嫌な運転手をなだめすかしながら探し回り、最後にはその風景と出会う。『赤い繭』の文章をちりばめながらの旅は、安部公房フアンには、作家の原点を視覚的に捉えることのできる、貴重な体験となっている。

 「ヘンリーたけしレウィツキーの夏の紀行」では、作者同様ユダヤ人の血が流れているヘンリーが、大陸の西方で、一千年前にユダヤ人が住み着き中国人と化してしまった話を聞く。その痕跡を見つけたいと、古い都を訪れる。方々で尋ね歩き、最終的に「シナゴグの井戸」の跡と出会う。周りは中国語を話している台湾で宣教師の授業を英語で受け、日本では「がいじん」と囃し立てられ、中国人になったユダヤ人の存在を知る。ヘンリーは日本語で思う。「がいじんが、がいじんではなく、なった。」だがヘンリーは最後に子供から「What’s your name?」と聞かれ、「答えよう、と一瞬思った。が、喉から何のことばもでなかった。」何か明確なものになりたいという、切ないまでの想いが伝わってくる。

 「自分探しの旅」と言葉でいうのは簡単だ。だが、実際はそれほど簡単なものではない。国際的と言うと聞こえは良いかも知れない。だが無国籍というとどうだろうか。いくつかの国の中で揺れている場合はどうか。中国語、日本語、英語が錯綜するリービ英雄の『天安門』は、ITの発達によりある意味「国境」という概念が薄れていき、新たな世界の誕生を予感させる今世紀にふさわしい一冊である。


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