『神の手』久坂部羊(幻冬舎文庫)
「安楽死は必要か?」
安楽死を見届けた人を二人知っている。一人はご主人の、もう一人は友人の安楽死を経験していた。もちろん合法化されているオランダでの出来事だ。それを話してくれた二人の表情に曇りはなかった。家族や友人を招いて、楽しい食事をし、好きな音楽をかけて、皆に囲まれて旅立つ。ある意味理想の死に方かも知れない。しかし、全てがそのようなケースとは言えないだろう。家族の意見が割れたり、本人の意思の確認が難しかったり、種々の状況が考えられる。
久坂部羊の『神の手』は、安楽死法制定をめぐる物語である。医療問題を扱う作品はフィクション、ノンフィクションを問わず多いが、この作品は作者が現役の医師であり、しかも老人医療や終末期患者の専門家であるので、非常に臨場感に満ちている。フィクションでありながらも、現実を見事に反映している部分が多い。
主人公は白川という外科医で、21歳の末期癌患者、古林章太郎の見るに見かねる苦痛と、忙しくて殆ど来られない母の代わりにずっと付き添っていた叔母のたっての頼みのせいで、章太郎を安楽死させる。ここから全てが始まる。医師、政界、官界、ジャーナリスト、メディア等が安楽死法推進派と反対派に分かれて、権謀術数の限りを尽くす。推進派は、医師会を解体し、新たな組織を作り、政界に働きかけて、法案を通そうとする。その陰には、政界の長老が存在し、彼を動かしているのは「センセイ」と呼ばれる謎の人物。
このように書くと、いかにも典型的なエンターテインメント小説のように見えるが、そうではない。もちろん、「センセイ」の正体は最後までなかなか分からないし、後半における事態の展開の早さには、推理、サスペンスの要素も見られるが、白眉は主人公の設定方法だ。白川は、安楽死が必要な場合があると言うことは認識している。だが、簡単に安楽死法の成立に賛成できない部分もある。逆に阻止派からも接触を受ける。何はともあれ、安楽死を実施した医師だからだ。
白川は迷う。章太郎を安楽死させた判断は決して間違っていないと信じながらも、阻止派から心の底では厄介払いという意識がなかったかと責められ、真摯に自己と向き合うと、その疑念を払拭できない。家族の判断も絶対とは言えない。「安楽死を考えるとき、この遺族の気持のぶれがもっとも厄介な問題だ。患者が苦しんでいるときには、見るに堪えないから早く楽にしてくれと懇願し、患者が死ぬと、あれで良かったのかと悩みだす。安楽死を求めるならあとで悔やまない。後悔するなら安楽死は求めない。どちらかにしてほしい。」現実そのものではないか。
白川は活躍する「主人公」ではない。時として殆ど忘れられていることもある。だが、常に安楽死に対して全身全霊で考える姿勢を崩さない。この白川の姿勢は、作者の考えそのものではないだろうか。安楽死は必要な場合がある。しかし、それを安易に考えてはいけない。行政も医師も家族も、決してそれを利用してはいけない。そのためにはどうすれば良いのか。安楽死にまつわる根本の問題を、白川は考え続ける。
「子どもを苦しませるのもいや、死なせるのはもっといや」ここで思考停止し、当てのない治療を続けるのは親のエゴか。「この国を律しているのは、正義でも理念でも経済でもない。ただの”空気”だ。古くは戦前の軍国主義から、最近の自己責任論やグローバリズムまで、日本を動かしてきたのは、常に社会を覆う”空気”だ。」KYなどという言葉が流行る国だから、言い得て妙だ。白川と久坂部が我々に突きつける課題は重いが、一刻を争う問題でもある。