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『モノローグジェネレーション』小坂俊史(竹書房)

モノローグジェネレーション

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「誰もが、「よそ者/観察者化」する中で、織りなされるモノローグの饗宴」

 本作は、漫画家小坂俊史のモノローグシリーズの最終作にあたる。前作の『遠野モノがたり』、前々作の『中央モノローグ線』と書評を書かせていただいたが、評者は本作が一番おもしろかったと思う。

 傑作マンガに対して、凡庸な社会反映論を読み込むのはあまりにも芸がないと言えばその通りなのだが、本作を一読して、現代社会の特徴をうまく描き出す作者のその才能には、改めてほれぼれとしてしまった。というのも、一作一作の四コマ漫画に描かれたその内容に、強い共感(あるある感)を覚えるというだけではなく、本作全体の構成が、なんとも現代的だったからだ。

 本作のタイトルは、『モノローグジェネレーション』だが、「○○ジェネレーション」という著作にありがちなように、何がしかの特徴を若者世代だけから読みとっているのではない。

むしろこのタイトルは、全ての世代(ジェネレーション)のコミュニケーションが、モノローグ化していることを的確に言い表している。特定世代だけを取り出して、現代社会を描くのではなく、さまざまな世代のキャラクターを通して、いわば俯瞰図に近い作品を描き出しているところに作者の力量が表れているともいえよう。

 かつて社会学者の宮台真司らは、「社会が島宇宙化する」と述べたが、本作に現れているのは、それがもっと個人化(個化)したありようだ。

登場するキャラクター個々人は、それぞれに価値観が多様化していて、混じり合うところがない。そして、どの世代の価値観が多数派で、ということもなく、細分化した果てに、すべてのキャラクターが(多数派が存在しない中での)少数派として描かれている。

 前作『遠野モノがたり』を評した際に、作者のモノローグシリーズには「よそ者目線」が潜んでいると指摘したが(『遠野モノがたり』書評参照、http://booklog.kinokuniya.co.jp/tsuji/archives/2011/09/post_31.html)、本作では、まさに全てが少数派と化す中で、全てが互いに「よそ者化」し、そして互いのふるまいを見つめる「観察者化」していくような状況が的確に描き出されていると言えるだろう。

 前々作『中央モノローグ線』(http://booklog.kinokuniya.co.jp/tsuji/archives/2011/04/post_10.html)では、それをJR中央線の各駅の特徴になぞらえてプロットされたキャラの数々を通して俯瞰していたのに対し、本作では、中学生のひとみ、大学生の一穂、にはじまって、年金生活者のナナにいたるまで、実に10代前半から70代にいたるまでの様々な世代にプロットされたキャラを描き出しているところに本書の面白さがある。

 そして何よりも特徴的なのは、「よそ者」として、互いのふるまいに対して「観察者」の立場でしかありえないから、コミュニケーションのありようが、モノローグの形を取らざるを得ない様子を描き出しているということである。

 したがって、モノローグの中身として語られているのは、他者のふるまいを「観察」した結果であったり、あるいは、自分のふるまいを他者のそれのように「観察」した結果であったりする。

 多様な世代の人々による、「観察」結果のモノローグが織りなされる様子は、あたかもツイッターにおけるつぶやきを「観察」しているような感覚にも似ていよう。

 いわば本作で描かれているのは、まったく別個の価値観を持った別個の個々人が、時にたまたま交差しながら、バラバラにうごめいていくような、そんな社会の様子である。それは、双方向的でなおかつ深く理解し合ったコミュニケーションが幾重にも積み重なっていくような社会と比べれば、変に空気を読んだり、それに縛られたりしなくて済む分だけ、それはそれで居心地のよいもののように、評者には思われる。

 ここまで無理に理屈をこねくり回さなくても、本作は十二分に面白く読めるマンガであるかもしれないが、できることなら、なぜ本作を面白く感じるのか、その背景にも思いを馳せてみると、より楽しめるのではないかと思う。


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