『悲しい本』マイケル・ローゼン作、クェンティン・ブレイク絵(谷川俊太郎訳)(あかね書房)
「物語の両義性」
東京に出張したとき、空き時間に絵本売り場をうろうろしていると、子供向けの絵本としてはちょっと変わった本を見つけました。この本は、単に死別という避けられがちなテーマをストレートに扱っています。
主人公は、エディという息子を亡くした男です。ふだんは明るい顔をしていますが、それは暗い顔をすると嫌われてしまうと思っているからにすぎません。
彼はとても孤独です。母親に話したいと思っても、母親はもういません。妻(エディの母親)も、この本には登場しません。彼は、他の誰かを見つけて話を聞いてもらったり、悲しみについて書いたりします。けれども、悲しみは、いつの間にか、そして不意に彼を見つけてつかまえてしまうのです。
誰にも、なにも話したくないときもある。
誰にも。
どんなひとにも。
誰ひとり。
ひとりで考えたい。
私の悲しみだから。
ほかの誰のものでもないのだから。
この本が私に強烈な印象を与えたひとつの点は、このように、悲しみを、他者から決定的に隔絶したものとして描いている点です。
私は、死別体験者のセルフヘルプ・グループに参加していた経験があります。そこでは、悲しみがあくまでも「私の」悲しみであること、つまり、悲しみは体験した人に固有のものであって、他の人が分かるなどということは決してできない、という固有性の感覚を強く感じました。その一方で、セルフヘルプ・グループでは同じ体験者同士だから分かりあえる、ともよく言われます。しかし、この言い方は、気をつけないと、悲しみや苦しみの固有性を軽視してしまう危険があります。もしセルフヘルプ・グループに「支えあい」や「援助」といった言葉で呼べるものがあるとすれば、それは固有性の感覚とたえず背中合わせになるようなものではないか――この本を読み返すたびに、私はこのような考えを強くするのです。
ここでもうひとつ取り上げてみたいのは、結末の部分です。そこでは、1本のロウソクを前にした主人公が描かれています。これについて、訳者の谷川俊太郎さんは、次のように述べています。
ローゼンが言うように、悲しみは「私の悲しみ」であり「ほかの誰か」が必要になってくる。その、ほかの誰かは悲しむ私に共感してくれる誰か、悲しむ私を愛してくれる誰かであるとともに、新しく誕生する生命そのものだ。ロウソクの光は、悲しみの闇にひそむ明日へとむかう道を照らし出す。
この部分を読んだときに、私は自分の第一印象とのギャップを感じました。というのも、最初私は、この結末を、主人公が空想していた大勢の誕生パーティから現実に引き戻された瞬間として読んだからです。大勢の幸せな人たちは一斉にいなくなり、たった1本のロウソクと頬杖をつく主人公が残ります。どんな悲しいときにも、幸せな過去があり、幸せな人々が生きている。けれども夢から覚めてみれば、癒されたようで消えていない「私の悲しみ」が残っている。そんなどうしようもなさを、私はこの結末から感じていたのです。
しかし、谷川さんの文章を読んで、再び読み返すと、確かに「明日へとむかう道」としても見えてくるから不思議です。1本のロウソクを見る主人公の表情は、心なしか和らいだようにも見えます。だからといって、最初の印象が消えてしまうわけでもありません。
私たちの心に残るような「よい物語」とは、このように複数の読み方を許容する両義性を持つものなのかもしれません(この考えは、文学理論の中に既にあるものです)。一言で「よい物語」といっても、いろいろな意味が考えられます。例えば「悲しみは必ずなくなる」とか「病いは必ず治る」といった物語が、多くの人を喜ばせてベストセラーになったとしたら、その物語は、読者にとって確かに「よい」のかもしれません。しかし、そうした物語に空々しさを感じる人たちにとっては、むしろ両義的な物語の方がよいかもしれません。なぜなら、「私の悲しみ」の固有性にこだわりたいときには「現実のどうしようもなさ」として結末を読むこともできるし、逆に、ポジティヴな変化を求めたいときには「明日へと向かう道」として結末を読むことができるから、つまり、自分自身の曖昧で不安定な状況に合わせて物語を解釈することができるからです。