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『「ひきこもり」への社会学的アプローチ――メディア・当事者・支援活動――』荻野達史・川北稔・工藤宏司・高山龍太郎(編著)(ミネルヴァ書房)

「ひきこもり」への社会学的アプローチ――メディア・当事者・支援活動――

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「社会問題を無条件に「解決すべきもの」ととらえるのではなく、かといって支援に無関心でもいられない」

近年「ひきこもり」という言葉を頻繁に耳にするようになってきました。例えば、数年前にニート支援を卒業論文のテーマにした学生が、ある支援機関へ聞き取り調査に行ったときのこと、その学生は、利用者にはいわゆる「ひきこもり」の人が多いらしい、という報告を持って帰りました。「ひきこもり」というと、何となく「部屋にこもって誰とも会わない」というイメージがあるけれど、改めて考えてみると一体何だろう? それは「ニート」とは違うの?――何かすっきりとしないまま、とりあえずその学生には「ひきこもり」という用語は用いずに「ニート」に統一して卒論を書くように、と指示したのでした。



その後、この本の編著者の一人であり、私が現在勤めている富山大学人文学部のお隣にあたる経済学部に所属されている高山龍太郎さんからこの本を紹介いただき、いかにも社会学の醍醐味を感じさせる見方を手に入れることができ、すっきりした気分になりました。

社会学の醍醐味を感じさせる>見方というのは、「ひきこもり」を何か実体的な状態としてとらえるのではなく、社会の中でさまざまな人が、それぞれの立場から「問題」として指示する言葉としてとらえる見方のことを指します。これは「社会問題の構築主義」と呼ばれるもので、1970年代にキツセとスペクターによって提唱されました(邦訳『社会問題の構築』)。この見方に基づけば、ひきこもりとは何か客観的に<ある>状態ではなく、不登校を問題化する精神科医の言説や、それに反発する「脱問題化」の言説と活動がおこるの中で(再)発見され、対象として指し示す言語活動の束としてとらえられます。

このような見方をすると、「それは解決すべき問題だ」という見方を安易にとれなくなります。というのも、どのような「ひきこもり」も、誰かがそれぞれの立場や利害関心から定義しようとするものであり、それが唯一正しい意味だとは思えなくなるからです。これは重要な点だと思いますが、しかし反面、現実に行われている支援のための取り組みや活動をすべて否定的にとらえ、無関心を貫いているように見えてしまう傾向も、また生じやすくなります。

この本が面白く、共感できるところは、そうした取り組みや活動に関して無関心ではいられず、むしろ社会学も――少なくとも<社会学>という知のあり方として――積極的にコミットしていくべきではないのか、という志向がうかがえる点です。例えば、第4章(石川良子)では、自分は「ひきこもり」であるとは言わず、その言葉から距離をとっているようでありながら、一方では「ひきこもり」のためにできた自助グループや支援団体という場を利用して、自分の生を肯定的にとらえるようになったという人の語りを丁寧に追い、そうした場には単に「(就労など)社会参加へのワンステップ」という以上の意味があると主張しています。あるいは、第6章(川北稔)では、家族を「ひきこもり」の原因であり責任をとるべき存在ととらえるのではなく、むしろ「社会から撤退した本人を受容しつつ、再度の社会参加を後押しする」(『「ひきこもり」への社会学的アプローチ』177ページ)という難しい課題を背負う存在としてとらえ、家族の負担を軽減しバックアップする社会資源の必要性を主張しています。こういった部分からは、単に「ひきこもり」を社会的に構築されたものとしてアイロニカルに解体するだけでなく、そうした見方を基盤に据えたうえで、いかに有意義な支援のあり方に関する認識を切り開いていくか、という点にまで踏み込もうとしているようにうかがえます。

社会問題の構築主義という<社会学の醍醐味>を活かしたうえで、どのような<社会学>が可能なのか。今後のあり方に関する一つの提案として読める一冊です。


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