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『金正日 隠された戦争』 萩原遼 (文藝春秋)

金正日 隠された戦争

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 1990年代に北朝鮮は300万人を越える餓死者を出したと推計されている。一番ひどかった1997年と1998年の両年にはそれぞれ100万人が餓死したらしい。

 おびただしい餓死者が出たのは主体農法と称する滅茶苦茶な農法で農地が疲弊していたところに、天災が襲ったためだと考えられている。似たような気象条件の中国側朝鮮族自治区や韓国北部では凶作程度の被害だったのに、北朝鮮でだけ大量の餓死者が出たのは人災の要素が強かったと言っていいだろう。

 現在では、金正日政権は餓死者が一番多く出た時期に核兵器とミサイルの開発に巨費を投じていたことが明らかになっている。核兵器やミサイルに使う外貨を食料輸入にふりむけていたら、あれほどの餓死者は出なかったはずだ。その意味では人災を越えて、未必の故意の大量殺人の可能性がある。

 本書はさらに一歩を進めて、北朝鮮の大量餓死は敵対階層を殲滅するために金正日政権が仕組んだジェノサイドではないかという仮説を提出している。表題の「隠された戦争」とは、国内の敵に対する戦争という意味である。

 著者自身が認めているように、今のところこれはで仮説であり、状況証拠の積み重ねでしかない。金正日政権が崩壊し、平壌の秘密文書館の扉が開かれるまでは答えは出ないだろうが、最終的な仮説以外にも、本書にはこれまで見すごされてきた重要な事実がいくつも指摘されており、今後の北朝鮮情勢を考える上で重要なので、このblogでとりあげてみたい。

 まず、金日成金正日の間には1990年以降、深刻な路線対立があり、1994年7月の金日成の死の直前には、ぬきさしならぬところまで激化していたという指摘である。これには北朝鮮側の公刊文書という裏づけがある。

 金日成は1973年に金正日を内密に後継者に指名してから徐々に権力委譲をすすめ、1980年代後半には外交以外はすべて息子にまかせていたが、ソ連ペレストロイカに踏み切って以降、援助が激減し、年間数万人の餓死者が恒常的に出るまでに経済は窮迫していた。金正日は経済の惨状を父親の目から隠していた。金日成が農村に現地指導に出かける時は事前に手を打って、豊かな生活をしているようなヤラセをつづけていたが、いつまで隠せるものではない。餓死者が出ていると知った金日成は愕然とし、ただちに内政に干渉をはじめた。1993年の党中央委員会総会では、それまでの重工業一辺倒から民生重視に転換し、農業と軽工業を第一とする新方針を打ちだした(『金日成著作集』に演説が収録されている)。

 さらにカーター元大統領を通じて伝えられた、韓国の金泳三大統領の首脳会談の申しいれをあっさり承諾した。北朝鮮はごねにごねて条件をつりあげるものだが、この時の金日成は前提条件や予備協議は不要で、いつでどこでも会うと即答した。話はとんとん拍子に進み、1994年7月25日から3日間、平壌で首脳会談をおこなうことが合意された。金日成は7月7日に死んだが、もし1ヶ月長く生きていたら南北首脳会談は6年早く開かれていただろう。そして、金泳三の手土産の援助によって、金日成が打ちだした民生重視の新政策は財政的裏づけをえたはずだ。

 金正日は南北首脳会談に反対だった。金日成の死の3年後に北朝鮮で出版された『永生』という事実上の公式伝記小説には、金正日が会談を中止するよう懇願した模様が記されているという。

 核開発放棄の見返りにアメリカに要求する発電所についても、父子の対立があった。金正日原子力発電所固執したが、金日成原子力発電所は10年かかると難色を示し、早く完成する火力発電所をたくさん作らせろと指示した。見返りを決定する第二回米朝高官協議は7月15日から開かれたから、もし金日成が1週間長く生きていたなら、北朝鮮は未完成の終わった2基の軽水炉原発の代わりに、4ヶ所か5ヶ所の火力発電所を手にいれていたはずだ。

 だが、金日成は7月7日に死に、民生重視の新方針は放棄された。火力発電所の代わりに軽水炉原発の建設がはじまった。

 金日成の死の前後の状況には不審な点が数多くあるようだが、興味のある方は本書を読んでいただきたい。

 さて、第二点は、餓死者はすべての地域・階層に平等に発生したのではなく、特定の地域・特定の階層に集中したことである。

 著者は1995年から1996年にかけて、北朝鮮にはいったWFPのモニタリング・チームの報告書(原文)を分析し、配給がどんなに不公平なものだったかを明かにしている。

 北朝鮮には「成分」と呼ばれる厳しい身分制度がある。人口の2割は革命の家系である「核心階層」とされ、優先的な配給など数々の特権があたえられているが、別の2割は反革命の家系の「敵対階層」とされ、どんなに優秀でも進学が許されず、人民軍に入隊することも労働党に入党することもできない。残りの6割は中間的な「動揺階層」とされている。

 大雑把にいえば、核心階層は便利な都市部に住み、敵対階層は山奥や僻地に追いやられている。洪水で被害がひどかったは敵対階層だったが、援助物資の半ばは被害の比較的軽い核心階層に配られ、一番打撃を受けた敵対階層にはほとんどに配られなかったという。

 WFPは深刻な被害を受けた人々に食料を届けようとしたが、北朝鮮当局からあの手この手で妨害を受けた。特に冷遇されたのは、敵対階級が集中して住まわせられている咸鏡道だった(帰国運動で北朝鮮にわたった在日朝鮮人の多くは咸鏡道に送られた)。咸鏡道は大洪水前の1994年から食料配給を停止されていたことがWFPによって確認されている。餓死者のうちの1/3がこの地域から出たと見られている。

 第三点は、北朝鮮が信頼に足る数字を出していないので、推計するしかないが、すくなくとも年100万人規模の餓死者が出るほどの食料不足はなかった可能性があることだ。

 北朝鮮国民が一年間に必要とする食料の最低限ぎりぎりの量は380万トンだが、韓国統一部の資料で収穫が380万トンを下回った年は1996年、1997年、1998年、2001年の4年間しかない。不足量は11万トンから35万トンで、国際援助で十分に補填できるはずの量だった。1995年以降、50万~154万トンの食料が援助されたから、特定階層に重点的に配給するというような操作をくわえていなければ、餓死者は出なかったか、出たとしてももっと小規模ですんだだろうというわけである。

年度 輸入量
トン
輸入額
億ドル
トン当り
ドル
1990 121万 1.9 156.45
1991 326万 3.98 121.78
1992 259万 4.91 189.22
1993 334万 5.14 154.08
1994 119万 1.58 132.73
1995 253万 6.85 270.6
1996 252万 5.94 235.76
1997 308万 7.07 228.98
1998 342万 6.92 201.95
1999 261万 5.25 201.05
2000 534万 6.06 123.65


 第四点は、食糧援助がはいりはじめてから、価格の高い米を大量に輸入している事実である。1990年から1994年まではトン当り150ドル前後で輸入しているが、本格的な食糧援助のはじまった1995年以降は200ドル以上に上昇しているのである。

 これは国際社会が北朝鮮を迫害するために、不当に高い価格で食糧を売りつけたからではなく(金正日政権は国内に対してはそう宣伝していたが、事実無根)、価格の高い米や精米の輸入量が増えるからだ。飢饉が一番ひどかったとされている1997年には64万トンの米・精米に2億1000万ドルも払っている(トン当り328ドル)。百万人以上の餓死者を尻目に、核心階層には贅沢をさせていたのである。

 次の条は興味深い。

 このぜいたくの傾向は、国際援助が入り始めた一九九五年から始まっている。コメと精米の輸入が目だって増え始めるのである。九三年は四十万トン、九四年は十二万トンと控えめだったが、九五年には一一七万トンにはねあがる。九六年六八万トン、九七年六四万トン、九八年一二〇万トン、二〇〇〇年には一六〇万トンに急増している。援助肥りでで特権階層は白米を食っていることを示している。

 国際援助は核心階層に贅沢をさせるために使われた可能性がきわめて高い。

 以上、四つの事実にはあきれるしかないが、しかし、これだけでは金正日が敵対階級殲滅のジェノサイドを立案・実行したと断定することはできない。金正日体制を維持するためには核心階層の優遇は不可欠であって、全国民に平等にひもじい思いをさせたら、宮廷革命が起こっていたかもしれない以上、これしか選択肢がなかったのかもしれない。

 萩原氏の仮説は説得力があると思うが、どのような意志決定があったかは、金正日体制が崩壊し、平壌の秘密文書館の扉が開かれるのを待つしかないのである。

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