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『外交敗北』 重村智計 (講談社)

外交敗北

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 北朝鮮問題の第一人者である重村智計氏が、金丸訪朝団以降の日朝外交を総括する本を出した。本書は小泉訪朝にいたる日朝交渉で暗躍した「ミスターX」の正体をあかした点が話題になり、ニュースでとりあげられたほどだが、もちろんそれだけの本ではない。描かれているのは現在進行中の生々しい同時代史だが、その背後には明確な外交論があるのだ。現存の政治家・官僚に致命傷をあたえるような記述があるので、しばらく毀誉褒貶がつづくだろうが、現代の古典として長く読みつがれていくのは間違いないと思われる。

 本書のテーマは明解だ。外交には理念と基礎知識が必要だが、その両方を欠いた政治家が国会対策の要領で「議員外交」をはじめたために、北朝鮮の工作機関にいいように振りまわされ、「外交敗北」を重ねてきたということである。

 困ったことに、理念と基礎知識を欠いていたのは政治家だけではなかった。大半のジャーナリストも、外交官も、そして北朝鮮専門家とされる人たちでさえも例外ではなかった。

 たとえば、著者の重村氏はTVや著書で工作機関を交渉相手にしてはいけない、外務省同士の交渉に一本化すべきだと指摘しつづけてきた。わたしの知る限りでは、重村氏以外の北朝鮮専門家で、工作機関を相手にするべきではないと発言しつづけた人はいなかったと思う。

 そもそも、なぜ工作機関と交渉してはいけないのか、はっきり理解している日本人はあまりいなかったのではないか。本書によれば、日本の外交官や政治家、ジャーナリストは相手が工作機関の人間かどうかにはまったく無頓着だったし、工作機関の人間だと気がついても、北朝鮮は独裁国であり、外務省よりも工作機関が力を持つ特殊な国なのだから、工作機関と裏取引するのはやむをえないと考えていたらしい。

 2001年にミスターXが登場するまで、日本の外務省や政治家、ジャーナリストの間では黄哲ファン・チョルという男が大物で通っていた。

 実は黄哲は対外連絡協会所属の日本語通訳にすぎず、日本から訪朝する政治家やジャーナリストを通訳兼監視人として世話する仕事をしていた。通訳兼監視人は日本人に対して居丈高な態度をとるのが普通だが、黄哲はそうではなかったので、担当した日本人から信頼されるようになり、対日工作の実績をあげるようになった。

 その功績が認められ、金丸・金日成会談の通訳に抜擢されたことから、日本側は金日成側近の大物と勘違いしてしまった。利権を狙う政治家や、取材や支局開設で便宜をはかってもらいたいジャーナリストが黄哲にさかんに接触するようになり、その多くが賄賂をわたしていたようである。

 金容淳キム・ヨンスン書記がそれに目をつけた。金容淳は「金正日総書記のナンバー1の側近」と自分から吹聴する人物で、幹部の間では評判がよくなかったというが、彼は黄哲を自分が担当する工作機関「統一戦線部」に引き抜いた。地位は課長補佐程度だったが、工作機関末端の通訳兼監視人からは大変な出世である。

 金容淳は黄哲に対する日本側の勘違いを利用して、北朝鮮外務省から対日交渉の実権を奪いとった。金容淳は日朝交渉の場に、課長補佐にすぎない黄哲を「高官」として登場させ、日本側は局長クラスの大物として遇した。金容淳と黄哲は平壌に支局を開かせるなどの約束をしたが、それはすべて自分にあたえられた権限をこえたものであり、空約束にすぎなかった。外交官は嘘をついたら交渉ができなくなるので、絶対に嘘をつけないが(北朝鮮の外交官ですら、嘘はつかないという)、金容淳と黄哲は工作機関の人間なので、平気で嘘をついた。

 金容淳と黄哲は日本とのパイプを独占し、我が世の春を謳歌したが、長くはつづかなかった。

 2000年8月に東京でおこなわれた日朝交渉に、黄哲は副団長格で参加したが、交渉にはほとんど出ず、政治家や朝鮮総聯幹部と秘かに接触し、空のボストンバックを札束で一杯にして帰っていったという(日本の公安が尾行していた)。それが黄哲の命取りになった。国家安全保衛部が黄哲の不正蓄財をかぎつけたのだ。金容淳にも塁がおよんだ。金容淳は日本に100万トンの米の援助をさせるからと、金正日に泣きついた。金容淳は日本に100万トンの米を要求した。金容淳しかパイプのない日本側は50万トンの援助に応じたが、金正日に約束した量の半分だったので、金容淳は失脚した。

 ミスターXは黄哲の失脚に係わった人物だという。ミスターXは黄哲の行状をすべて知った上で、彼の地位を奪いとったことになる。国家安全保衛部の所属であるから、もちろん工作機関の人間である。

 失脚時、金容淳は海外の口座に数億ドルの隠し預金をもっていたというが、その大半は黄哲を使って、日本から吸いあげたものなのだろう。50万トンの米の援助も、金容淳の保身のためにのものだったが、彼が失脚したことによって、すべて無駄になった。

 工作機関を相手にすると、こうなるという見本の意味で長々と紹介した。あきれたことに、日本は学習効果がないというか、同じパターンの「外交敗北」が何度もくりかえしている。

 賄賂を騙しとられたり、工作員の保身のために米を援助させられたりする程度の「外交敗北」はまだいい。問題は、日米同盟を崩壊させかねない失敗を、日本は一度ならず二度までも――金丸訪朝と小泉訪朝――犯しそうになっていたことだ。アメリカが北朝鮮の核開発を阻止しようと躍起になっている時に、日朝国交を樹立し、多額の援助をあたえたならら、北朝鮮核兵器開発を助けることになり、日米同盟の崩壊をまねいたのは明白である。

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