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『禁じられた福音書』 ペイゲルス (青土社)

禁じられた福音書

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 おどろおどろしい題名だが、『トマスによる福音書』を中心に、グノーシス文書を一般読者向けに解説した本である。『トマスによる福音書』は早くに隠滅され、1945年にエジプトでナグ・ハマディ文書の一部として発見されるまでは幻の書だっただけに『禁じられた福音書』という邦題は当たっていなくもない。

 著者のエレーヌ・ペイゲルスは初期キリスト教史の研究者だが、ハイスクール時代は福音主義にかぶれ、『ヨハネによる福音書』の熱烈な読者だったという。しかし、友人が交通事故で死亡した時、教会の仲間たちは彼がユダヤ人だという理由で自業自得のようにくさした。ペイゲルスは信仰に疑問をおぼえるようになり、大学では初期キリスト教史を専攻した。初期の純粋で単純な信仰に立ちかえれば疑問が晴れるかもしれないと考えたのだ。しかし、疑問は晴れるどころか、逆に深まった。最初の二百年間のキリスト教はさまざまな思潮が流れこんで混沌としており、純粋でもなければ単純でもなかったからだ。

 ハーバード大学の大学院に進学し、当時、まだ未公開だったナグ・ハマディ文書と出会ったことはペイゲルスにとって決定的だった。彼女は文書を解読する作業に参加し、1978年という早い時期に『ナグ・ハマディ写本』を刊行している。同書は『トマスによる福音書』や『マグダラのマリアによる福音書』など、グノーシス系の福音書を時代背景とともに歯切れよく紹介していて、グノーシス主義に関する基本図書の一つといってよく、現在でも読みつがれている。

 ペイゲルスのことは複数の人が美人と書いているが、『ビジュアル保存版 ユダの福音書』のDVDを見ると可愛らしいオバサンで、確かに若い頃は美人だったろう。

 本書は『トマスによる福音書』と『ヨハネによる福音書』の類似性に着目するところから本論をはじめている。両者の類似性は新井献編の『トマスによる福音書』でもすでに指摘されているし、両者は共通の資料にもとづいて書かれたという説もあるようである。ペイゲルスはさらに踏みこみ、『ヨハネ』の著者は『トマス』を危険視していたのではないか、『ヨハネ』は『トマス』に対する反論として書かれたのではないかと推論する。

 根拠はいくつかあるが、もっともわかりやすいのは『ヨハネ』だけがトマスという弟子をうたぐり深い愚か者として印象づけていることだ。復活したイエスが弟子たちの前にあらわれる条では、イエスはトマスに自分の身体を手でふれさせてから、こう叱りつける。

「わたしを見たから信じたのか。見ないで信じる人は、幸いである」(ヨハネ20-29)

 他の福音書ではトマスは特別扱いされいないのに、『ヨハネ』だけがトマスを執拗に馬鹿にしている。トマス派とでもいうべき一派を意識して書いたという仮説は説得力がある。

 なぜ『ヨハネ』の著者は『トマス』を危険視したのか。神の光の分有という思想は両者に共通しているが、『トマス』は神の似像である人間はすべて神の光を分有していると主張しているが、『ヨハネ』は「神の一人子」であるイエスのみが神の光にあずかれるとしたのだ。

 『トマス』の思想はキリスト教神秘主義の系譜からみても独自であり、過激である。キリスト教神秘主義聖テレジアにせよ、ベーメにせよ、自己と神の同一視は慎重に避けているのに対し、『トマス』は自己の内に神の光が隠れていることを堂々と宣揚しているからだ。

 本書の後半はニケア信経に代表されるキリスト教正統信仰形成の過程で、『トマス』の思想がいかに排除されていったかに焦点をあわせている。ニケア信経をまとめた神学者たちは、神の似像論に対しては、アダムは確かに神の似像として作られたが、原罪によって決定的に損なわれてしまったととどめを刺している。

 ペイゲルスは『マルコ』、『マタイ』、『ルカ』の読み方には暗黙のうちに『ヨハネ』のキリスト論が混入していると指摘し、もし『ヨハネ』の代わりに『トマス』が第四の福音書に選ばれていたら、共観福音書は別の読み方がされ、別のキリスト教、別のヨーロッパが生まれていただろうとしている。今さらそんなことを言っても死んだ子供の年を数えるようなものだが、魅力的な仮定ではある。

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