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『ひきこもりの国』マイケル・ジーレンジンガー著(光文社)

ひきこもりの国

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●ひきこもりという静かな反乱は拡大する●

この本は、ひきこもり問題の取材をしたアメリカ人ジャーナリストが、若者の個性を抹殺し、彼らをひきこもりに追いやる日本社会の構造を分析したものである。結論の一つとして、国際社会のなかで日本という国全体がひきこもっていることが示されている。

私はこの本のメッセージに深く同意しながら読了した。

本書には日本的なエピソードがふんだんに盛り込まれている。

そのひとつひとつはあまりに普通のことなので、社会現象として日本のジャーナリズムが取り上げることは少ない。それらを著者のジーレンジガー記者は丹念に記述していく。

異議申し立てを許さない世間の圧力、建前と本音を使い分ける多重人格的な精神生活、個性がない空虚な自分を埋めるためのブランド信仰、日本よりはるかに精神の自由を感じさせる外国に住んだ日本人が国内ではストレスで苦悩する現実、先進国でもっとも起業が少ないチャレンジを許さない社会風土、世界最強の消費者となった日本の独身女性たちの多くはパラサイトシングルであり日本の将来に絶望しているということ。年間3万人以上が自殺してもなんの手だてもうてない無策きわまる政治。記者クラブによってジャーナリズムが機能しなくなった惨状、しかし、まっとうな主張を掲げた大規模な抗議運動(デモ)が起きない、起こせない日本社会。

こういった「ありふれた事柄」が丁寧にまとめられているのである。

私は外見問題について執筆してきた者として、本書に少なからず日本人の外見について言及されていることに関心を持った。

いま日本では多種多様なファッション商品群があふれているが、街で見かける多くの人の外見はきわめて画一的である。ファッション誌がいくら「個性的であれ」と訴えても、人々は他人の眼を気にして逸脱した外見になることを恐怖している。

ジーレンジガー記者はファッションを選択するときの日本人の行動についてこう書いている。

「欧米では、女も男もたいてい自分独自の自己イメージを表現するファッションを選ぶので個人の趣味や気分の変化によって、いろいろな組み合わせが生まれる。ところが日本は、プロセスはまったく逆のようである。まず自分が帰属したいと思う集団のユニフォームを選ぶことによって人格を主張し、ついでその服装によって自分の気持ちや、他者にどう見られたいかを確定しようとする」

 欧米でも低所得者は、その収入にみあった服装をするため、画一的になる傾向はあるが、おおむねこの記述は正しいと思う。自分が着たい外見にするよりも、周囲とあわせて外見をつくりこむこと。それが日本人のファッションの掟である。

 社会学者の山田昌弘からはこんな言葉を引き出している。

「日本には宗教はありません。あるのは外見だけです」

この外見とは、周囲から浮かない外見という意味合いと、空虚な自己を隠蔽するために海外ブランドというユニフォームを着用する、という二重の意味が込められている。

 私はこの数年、学校や講演会などで、聴衆に向かって話す機会がある。ひととおり話し終えたあとに、「何か質問はありませんか?」と聴くと、ほとんど質問はでてこない。公共の場で質問をすることは恥ずかしいことである、自分にはそんなことはできない、と思いこんでいるのだ。この質問をする能力の喪失は、ジャーナリズムにも浸透している。記者クラブをのぞけば、質問をしないで与えられたプレスリリースのリライトにいそしむ記者たちが、クラブに引きこもっているのだ。

日本人は外面も内面も、周囲から浮かないように、と怯えながら生活している。この掟を破ると、集団で排除されると信じられているからだ。

その集団的な同調圧力に抵抗する方法のひとつが、ひきこもりなのである。周囲に心を同調させることができない孤独な魂を引き受ける集団を育てる力がなくなった社会では、彼らは自室に立てこもり、たった一人で世界と対峙するしかない。

 この国では、異議申し立てのノウハウは継承されていないため、ひきこもりという静かな反乱は拡大の一途である。

 安易な希望は書かれていない。それが良い。

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