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『1冊でわかるユダヤ教』 ノーマン・ソロモン (岩波書店)

1冊でわかるユダヤ教

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 オックスフォード大で教鞭をとっていたラビによるユダヤ教の入門書である。

 本書は9章にわかれる。1~3章はユダヤ教ユダヤ人の長い歴史を解説し、4~6章はユダヤ教の風習を紹介する。7~9章では19世紀以降の激動の歴史の中で試行錯誤してきたユダヤ教の姿を描いている。

 小さい本なのに情報量が多いが、百科事典的な羅列ではなく、血の通った叙述になっている。ユダヤ人をなんとかわかってもらいたいという著者の姿勢のゆえだろう。

 ユダヤ教キリスト教の母体といわれることが多いが、旧約聖書にもとづく信仰をそのまま残しているわけではない。キリスト教がわかれた後、ユダヤ人は信仰の中心だった神殿をローマ帝国によって破壊され、イスラエル王国の故地からも追われる。イスラエル王国時代のユダヤ教サドカイ派ファリサイ派エッセネ派等々多様な流れがあったが、離散生活の中でファリサイ派の流れだけが生き残り、ラビと呼ばれる宗教指導者によってユダヤ人のアイデンティティが維持された。異民族の中で律法を守りつづけるために口伝が重視され、口伝とその解釈を記した膨大なタルムードが編纂され、旧約聖書に次ぐ典拠として尊重された。いわゆるユダヤ教とは、このラビ的ユダヤ教のことなのである。

 本書の内容は多岐にわたるが、一番の読みどころはユダヤ人のアイデンティティを論じた第一章「ユダヤ人は誰か」だと思われる。

 ユダヤ人はキリスト教圏でもイスラム教圏でも差別を受けたが、差別の不当性を強調するあまり、サルトルの『ユダヤ人』のように、ユダヤ人とは「他の人々がユダヤ人と考えている人々」と極論するのは、ユダヤ人のアイデンティティを無視した暴論だろう。外部から見れば差別問題であっても、ユダヤ人の側から見ればユダヤ人としてのアイデンティティの問題なのだ。

 ゲットーに閉じこめられていた中世、ユダヤ人のアイデンティティは自明で、そんなことで悩む者はいなかった。迫害を受けても、「主は愛する者を懲らしめられる(「箴言」)で、「選ばれた民」である証と受けとられた。ところが啓蒙主義の時代になり、市民としての権利がユダヤ人にも認められるようになると、ユダヤ人としてのアイデンティティがゆらぎはじめる。差別が薄れたことで、「選ばれた民」である自信が怪しくなったからである。

 だが、啓蒙主義時代が終わり民族主義が勃興すると、ユダヤ人差別が再び激化し、近代的な反ユダヤ主義が形成されていく。ユダヤ人の側にも迫害に対抗する宗教的熱情が生まれ、それがシオニズムにつながっていくが、すべてのユダヤ人がユダヤ人の誇りを取り戻そうとしたわけではないという。

 近代社会に同化することを選んだユダヤ人もいて、彼らはユダヤ人蔑視の価値観を受けいれ、自らがユダヤ人であることを恥じるようになっていく。著者がその例としてあげるのは、カール・マルクスである。

 カール・マルクスの初期の論文「ユダヤ人問題によせて」は、ユダヤ人の自己嫌悪の知的形態を示す好例である。彼は、「ユダヤ人性」とは宗教でも民族性でもなく、獲得しようとする欲望である、と論ずる。その際に彼は、中部および東部ヨーロッパの膨大な数のユダヤプロレタリアートの存在を完全に黙殺し、ユダヤ人と、そのユダヤ人から生まれた宗教であるキリスト教を信じるキリスト教徒とを「敵」と――すなわちブルジョワ資本主義者と――同一視する。マルクスは明らかに、自分自身がユダヤ人であるということから逃避し(彼は六歳のときに洗礼を受けていたが、両親ともユダヤ教のラビの家系である)、反セム主義的なフォイエルバッハの文化的環境に「同化」し、フォイエルバッハのかたよったユダヤ教の定義を採用し、そして、社会主義国際主義の中にユダヤ的な特殊主義からの避難所を見出したのである。

 マルクス主義ユダヤ教の濃厚な影響を受けていることは多くの論者が指摘するところだが、ユダヤ人の眼から見るとマルクスは裏切者ということになるらしい。

 日本で出ているユダヤ教関係の本は意外に多く、訳者による日本語文献案内は12ページにおよぶが、なぜかボール・ジョンソンの『ユダヤ人の歴史』(最近、徳間文庫から三分冊で再刊された)がはいっていない。あの本は読み物として抜群に面白いし、内容も信頼できると思うのだが、どうなのだろう。

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