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『マラルメ論』 アルベール・ティボーデ (沖積舎)

マラルメ論

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 チボーデが1912年というきわめて早い時期に書いたマラルメ論である(邦訳は1926年の改訂版にもとづくが、訳者解説によるとそれほど大きな異同はないらしい)。

 チボーデはヴァレリーと同世代の戦前のフランスを代表する批評家である。ヴァレリーが問題を核心に向かって深く掘りさげていくのに対し、チボーデは該博な知識を背景に広い視野から俯瞰するという違いがある。チボーデの『小説の美学』や『フランス文学史』は必読の本だったが今では絶版で、入手できるのは本書とフロベール論くらいらしい。多くの大学で仏文科がなくなる御時世だから、チボーデが忘れられるのも仕方のないことなのかもしれないが、もっと読まれていい批評家だと思う。

 本書はマラルメの本格的な研究としては最初のもので、その後の研究を方向づけたとまでは言えないにしても、基本文献であることは間違いないだろう。ギイ・ミショーは「マラルメ作品の非常に多彩な面を世人に高く評価させることに成功した」と評している。

 1912年はもちろん、1926年の時点でも全集はおろか書簡集も出ておらず、異文の刊行はようやくはじまったばかりだった(「エロディヤード」の異文は改訂版の刊行直前に公開されたそうで、本書中で特筆されている)。何が書いてあるのだろうという興味で読みはじめたが、意外に現代的である。

 マラルメはパリに出てきてから『最新流行』というファッション雑誌を独力で編集し、多くのペンネームを使いわけて誌面の大半を埋めていた。また、英語教師の副業として英語の参考書も執筆している。『最新流行』や英語の参考書はジャン=ピエール・リシャールによって再評価されるまで無視されていたとばかり思いこんでいたが、チボーデはすでに『最新流行』と『英単語』を読みこみ、詩作を読み解く鍵として用いていたのである。

 弟子のモクレールが喧伝していたヘーゲル主義に対しては「マラルメの観念論を哲学的な起源に関係づけたり、彼がおそらく読んでいない思想家の影響に結びつけることは誤りであろう

」と一蹴している。チボーデはマラルメの観念論の影響源はリラダンだと喝破している。

 凝縮したあまり電報文のようになってしまったマラルメの詩句をマネのモザイク的な描き方と関係づけた指摘は印象批評といえば印象批評だが、新鮮である。最近のマラルメ論ではリラダンやマネの名前はあまり出てこないようだが、マラルメは彼らとしょっちゅう行き来していたわけで、影響しあわないはずはなかったのだ。

 もっとも、時代を感じさせる部分もある。わたしが気になったのはベルクソンを援用した部分だ。両大戦間のフランスはベルクソンの全盛時代だった上に、チボーデはリセでベルクソンに教えを受けただけに、ベルクソンの影響が顕著だが、本書も例外ではなかった。

 マラルメの詩にベルクソン的な持続を見出そうとした部分の多くは無理な印象を受けたが、ベルクソンの援用が成功している部分もある。チボーデは「エロディヤード」と「半獣神の午後」を対比し、「エロディヤード」は絵画的・静止的で高踏派の枠内にとどまっているのに対し、「半獣神の午後」は新しい詩境を開いたと述べている。

 マラルメにおいて支配的なのは活動的、視覚的、触覚的イメージのいずれでもなく、動性的イメージである――また触覚的、視覚的、聴覚的イメージも彼のなかでことごとく動態化され、他の感覚においてそれに対応するイメージへ移行する傾向を示すが、その場合にも力点は出発点や到達点にではなく、それが描く軌跡そのものに置かれる。

 あらゆる造形的イメージは捕捉され定着された瞬間に『半獣神の午後』で半獣神が抱擁する二人のニンフのように手をすりぬけて逃れ去る。『半獣神の午後』はこのようなイメージの動性をもっとも顕著に示す作品であり、そこでは同一の文章の枠内で様々なイメージが絶えず互いの中に消失し溶解してゆくのである。

 こういうベルクソンの使い方なら説得力があると思う。

 「書物」についての指摘も興味深い。「書物」は空間的な固まった存在であり、ベルクソン的持続の対極にあるが、「余白」によって動きと神秘が生みだされるというのである。構造主義化されたマラルメとはまったく別のマラルメを発見するヒントになるかもしれない。

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