『マラルメの想像的宇宙』 ジャン=ピエール・リシャール (水声社)
ある流派が成功するかどうかは、努力が報われるかどうかにかかっているという説がある。努力しなくてもできるような流派は最初からはやらないが、いくら努力しても才能がなければ格好がつかない流派もはやらない。しかるべく努力すればしかるべき成果があがるという期待が流派の成功には不可欠だというわけだ。
文学研究の世界で実証主義が長らく主流を占めているのは、まさにこの理由による。文学的感性はあったほうがいいが、なくてもコツコツ調べれば、調べただけの論文を仕上げることができる。努力は報われるのである。
実証主義の地歩を一時は脅かした構造主義批評や脱構築批評もこの法則の例外ではない。もちろん、構造主義批評や脱構築批評でも傑作を書くには才能が必要だが、才能がなくても、努力しさえすれば一応の格好がつくような方法が確立されているのだ。
構造主義批評の流行のきっかけはバルト=ピカール論争でロラン・バルトが実証主義を代表するレイモン・ピカールに勝利をおさめたからだが、論争の発端となった『ラシーヌ論』は皮肉にも構造主義批評の産物ではない。『ラシーヌ論』は物語の構造分析を言いだして構造主義批評に軸足を移す前に書かれた、ヌーヴェル・クリティック時代の成果だ。
ヌーヴェル・クリティックは現在ではすっかり忘れられており、批評理論を紹介した本に「テーマ批評」とか「現象学的批評」という名称でわずかに名残をとどめているにすぎない。しかし、読んでおもしろい批評はヌーヴェル・クリティックが第一だというのがわたしの考えだ。
ヌーヴェル・クリティックには錚々たる作品があるが、現在、日本語で読めるのはバルトの『ラシーヌ論』と『ミシュレ』、そしてジャン=ピエール・リシャールによる本書くらいしかない。
ヌーヴェル・クリティックにもさまざまあるが、共通点は現象学、特にメルロ=ポンティの身体論の影響を受けていることだ。ヌーヴェル・クリティックは構造批評の抽象的な世界とは対蹠的な感覚の横溢した世界を展開するのである。リシャールやバシュラール、スタロバンスキの批評は感覚の悦びにあふれている。
リシャールの批評は「テーマ批評」と呼ばれるが、この場合の「テーマ」とは作品の主題とか主張という意味ではなく、固着観念のように作品に繰りかえし登場する無意識的なテーマを意味する。本質的な作家は固着観念にとり憑かれているものだが、その固着観念を拾いだし、固着観念間のネットワークをあぶりだすために、従来見すごされてきた周縁的な作品まで含めて、あらゆるジャンルの作品を横断的に引照し、引用のパッチワークを作り上げる。
本書でいうと、リシャールは詩や散文詩はもとより、書簡、ファッション雑誌『最新流行』の記事、副業として書いた英語の参考書までを網羅している。断簡零墨まで目を通すには努力が必要だが、努力だけでも不十分である。鍵となる固着観念を発見するには文学的感性が不可欠だし、どの部分を引用するか、引用をどのように配列するかでも文学的感性が如実に出てしまう。
本書を読めばわかるが、リシャールがやっているのはため息が出るような名人芸であって、これ自体、一つの文学作品となっている。こういう本は真の才能がなければ書けるものではない。自戒をこめて書くが、才能もないのに「テーマ批評」を試みたら、無様な失敗をさらすのが落ちだ。
神輿をかつぐ人がいないので忘れられた形だが、批評の快楽を堪能したい人は本書を読んでほしい。人類が生みだした最高の詩を論じた、最高の批評がここにあるのだから。