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『国字の位相と展開』 笹原宏之 (三省堂)

国字の位相と展開

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 ソシュールが文字を研究対象からはずすと宣言したことに代表されるように、言語学では文字はまま子あつかいされてきた。欧米の言語学の移入からはじまった日本の国語学(最近は「日本語学」と呼ぶようであるが)もそうである。

 言語とはまず音声であり、文字は音声のコピーにすぎなかった。漢字は音声のコピーですらないと考えられていたので、能率を求める近代社会の要請を背景に、無視どころか積極的な排撃の対象となった。いわゆる漢字廃止論である。国語学の世界では長いあいだ漢字廃止論者が一大勢力を誇っていた。

 音声に密着したカナ文字については日本語表記論として長い研究史がある。中国の漢字については紀元前にさかのぼる漢字学の伝統と二十世紀になって発見された甲骨文字学によって体系的な解明が進んでいる。だが、日本で作られた漢字となるとかえりみられることはあまりなかった。

 日本製の漢字を「国字」というが、国字は散発的にとりあげられるのみで、組織的な研究はおこなわれてこなかったといってよい。唯一の例外はエツコ・オバタ・ライマン氏の『日本人の作った漢字』だが、範囲がほとんど地名・人名に限られていたので、国字の多様なありようを網羅したとはいえない。

 本書は国字をはじめて体系的かつ実証的に考察した画期的な研究であり、2007年度の金田一京助博士記念賞を受賞している。

 著者は本書の前年に岩波新書から『日本の漢字』を上梓している。『日本の漢字』は本書にいたる研究の成果から一般の読者が興味をもちそうな話題を選んで平明に書き下ろしたものなので、本書と重なっている部分がかなりあるが、記述の精度と深さは比較にならない。

 本書は三部にわかれる。

 第一部「国字とは何か」ではまず国字の研究史をふりかえり、どのように呼ばれてきたかを概観している。作字、倭字、倭俗ノ制字、俗の作り字といった呼称を見ていくと、国語の最前線に位置する文字だということがわかる。

 次ぎにその字が国字かどうかという判定手続が考察されている。中国で使われていないといっても、かつて中国で使われていた字が日本で残ったという逸存字の可能性があるのである。中国にすでにある字と同じデザインの字をたまたま作ってしまったという字体衝突のケースもある(たとえば「鮎」は中国ではナマズをあらわす字である)。

 第一部の圧巻はダニという字を例に国字誕生のメカニズムの追った条で、崩し字を新しい字と誤認したことにはじまり、ついに中国の字書に載るまでを追っている。

 第二部「国字の位相」では社会の一部でのみ使われる国字を「個人文字」、「地域文字」、「位相文字」の三つのケースにわけて考察している。新造字には広く使われて国字となるか、まったく使われなくなるかという両端の間に、限られた範囲でのみつかわれるという中間段階がある。「個人文字」と「地域文字」は説明するまでもあるまい。「位相文字」は特定集団でのみ使われる文字をさす。江戸時代に職業集団が細分化・多様化するとともに漢字表記の機会が増加した結果、位相文字が増えたという。中間段階で安定している字は意外に多く、これが国字の文化に奥行をあたえている。

 第三部「国字の展開」は個人の作った文字が全国区の文字に成長していく過程を実証的に跡づけており、よくここまで調べあげたものだと嘆息した。ケーススタディの対象となっているのは林術斎が作り永井荷風が作品の題名に用いた「濹」と、蘭方医宇田川榛斎が作って解剖用語として社会に定着した「腺」と「膵」(「腺」は中国でも公認の文字となっている。)、明治になりメートル法の導入の際に作られた「粍」、「糎」である。

 最後の章は「コンピュータにかかわる展開」で、著者自身が制定にかかわったJIS漢字コードの顚末が語られている。

 本書は学術書だが、語り口は驚くほど平明で、ずるずる読みつづけてしまう。漢字に興味のある人は読んでおいて損はない。

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