『西洋哲学史』 岩崎武雄 (有斐閣全書)
学生時代に読んで感銘を受けた本である。本書は1952年に初版が出て以来、半世紀以上にわたって版を重ねているロングセラーであり、簡にして要を得た哲学史として定評がある。今回、書店で健在なことを発見し、おおと声をあげた。
本書は1961年と1975年に改訂されているが、1975年改訂では冒頭に「哲学史とは何か」という序論が追加されている。わたしは熊野純彦氏の『西洋哲学史』の感想を書いた際、哲学には発展などということがあるのかという疑問を述べたが、本書の序論はまさにこの問題をあつかっているのである。
岩崎はヘーゲルによってはじめて哲学史は学問になったと認める一方、絶対精神の展開というヘーゲル流の形而上学を捨て去っても「なおかつ哲学史のうちに哲学思想の展開を見ることができるのみならず、むしろそう見るべきではないかと考える」と断言する。核心部分を引けばこうである。
哲学者自身がたとえそれ以前の哲学と対決するという意識を持たず、ひたすら自己の思索によって新しい哲学思想を持つにいたったとしても、もしその新しい哲学思想が何らかの時代的意義を持つものでないとしたら、すなわちそれがそれ以前の哲学思想の持つ限界を乗り越えるという意味を持っていないとしたら、それは多くの人々にその意義を認められることはないであろう。そしてまた哲学史のうちに残ることもなく消えてしまうであろう。……中略……私はもとより哲学史上における思想の展開が論理的に必然的なものであったということを主張しようとするものではないが、少なくとも哲学史上に残ってくる哲学はそれ以前の哲学の限界を何らかの意味で越えてゆくという意味を持っているのであり、この意味で哲学史のうちには一貫した思想の展開が存すると考えるのである。
岩崎の考え方を一言でいえば適者生存説の哲学版になるだろう。後世に残った哲学は残らなかった哲学を「越えている」というが、この場合の「越える」ことは前代の思想を否定しつつ保存することだとは限らない。前代の思想とはまったく無関係な思想が残ったら、それまでの伝統は途切れてしまう。後代の思想がそれまでの思想を内側に保持しつづけないとしたら、単なる流行の交代であって発展とはいえないだろう。絶対精神抜きの哲学史は成立するのだろうか。
発展史観の問題は釈然としないが、今回岩崎本を読みかえして気がついたことがある。
まず、目次を示そう。
序論 哲学史とは何か
第1編 古代哲学
第2編 中世哲学
第3編 近世哲学
波多野精一の『西洋哲学史要』の目次と比較してみるとわかるが、両者はよく似ているのである。新カント派時代の哲学史という大枠が共通している以上、似てくるのは当たり前だが、古代と中世の部分ではドゥンス・スコトゥスの条のように論旨の運びまで似ている箇所があったり、グノーシス主義のように見出しだけで実質的な中味のとぼしい箇所があったりする。
プラトンとアリストテレスについては掘りさげた考察がおこなわれているが、古代編と中世編のそれ以外の話題については岩崎本は波多野本の強い影響下で書かれたらしい。
もっとも本書の本領は近世編にあり、とりわけカントからヘーゲルにいたるドイツ観念論を祖述した条は岩崎本の独擅場で、今回読み直して多くを教えられた。ドイツ観念論をこんなにわかりやすく、魅力的に紹介した本は他に思いつかない。
進化史観できれいにまとまりすぎているという印象はなくはないが、本書は伝統的な哲学史としてはもっとも完成度の高い本ではないかと思う。今後も哲学史の古典として長く読みつがれていくだろう。