『貴重書デジタルアーカイブの実践技法―HUMIプロジェクトの実例に学ぶ』 樫村雅章 (慶應義塾大学出版会)
慶応大学が1996年にグーテンベルク聖書を丸善から購入したのを期にHUMIプロジェクトというデジタルアーカイブ事業をはじめたことは高宮利行氏の『グーテンベルクの謎』と安形麻里氏『デジタル書物学事始め』で紹介されているが、本書はHUMIプロジェクトをテクニカルディレクター兼プロジェクトマネージャーとして実際に推進してきた樫村雅章氏が「情報の科学と技術」誌に2006年4月号から2007年3月号まで連載した原稿がもとになっており、2010年4月発行の直前までの最新情報が盛りこまれている。
もともと慶応大学文学部は旧図書館情報大学(現筑波大学図書館情報専門学群)とならぶ日本の図書館学の総本山であり、司書の世界では二大派閥の一方を形成しているといわれているが、樫村氏は慶応大学理工学部電気工学科の出身で、現在は慶応大学デジタルメディア・コンテンツ統合研究機構の準教授ということである。
慶應本グーテンベルク聖書のデジタル画像の仕上がりが評価され、HUMIプロジェクトではグーテンベルク聖書を所蔵する海外の図書館や博物館、大学の要請でこれまでに11セット19冊のグーテンベルク聖書を撮影してきたが、それだけではなく慶応大学が所蔵する中世ヨーロッパ写本、ヨーロッパ近世の装飾本、奈良絵本、日本の古地図なども公開している。
本書では撮影の様子や使用している機材(HUMIプロジェクトで独自に開発したものもある)、海外遠征の様子、撮影された画像と各段階の処理が多数の写真で示されており、ページを眺めていくだけでも面白い。
相手が稀覯書なだけで要するに自炊と同じではないかと思う人がいるかもしれないが、グーテンベルク聖書の校本間の印刷のズレや大英博物館所蔵のキャクストン印行『カンタベリー物語』の活字パターンの洗いだしといった精密な研究をおこなうためには自炊とはまったくちがうレベルの精度が要求される。たとえば紙なので撮影時にはどうしてもページに湾曲が生じてしまうが、湾曲を電子的に補正するとデータの信頼性が損なわれるので、独自に開発したブック・クレイドルという空気吸入式の治具に本を固定し極力平面を保った状態で撮影するなど、ここまでやるのかという工夫がたくさん出てくる。ページの質感を適切に出すために光の当て方にもノウハウがある。Photoshopでレタッチすればいいだろうなどという世界ではないのだ。
校本の相互比較をするためにはできるだけ同じ条件で撮影することが望ましいが、所蔵館の意向によって空気吸入式の治具が使えない場合もあり撮影はノウハウのかたまりで、文章には表現しきれない工夫がかなりありそうである。
1997年にプロジェクトが発足した時点では400万画素のデジタルカメラしかなかったのでフィルムに撮影後、スキャンするという間接的なデジタル化をおこなっていたが、その後2200万画素以上のデジタルカメラなら問題はないことが確認できたので2007年以降は直接デジタル化に移行し、現在は4x5フィルムをスキャンしたよりも高解像度の6000万画素のカメラを使用しているということである。フィルムスキャンとフラットベッドスキャナ、デジタルカメラでどう画像が変わるかという例も示されている。
トリミングとカラープロファイルの変換だけをほどこしただけのファイルをマスターデーターとして残し、公開用の画像はアンシャープープマスク処理をほどこし、1枚あたり1Mバイトにおさえたtiffないしjpeg画像にしている。329dpiの表面解像度のグーテンベルク聖書の画像の場合、アンシャープープマスク半径1.0、適用度100、閾値3におさえているよし。
撮影や画像処理の段取やノウハウが詳しく書かれているのでマニュアル本としても読めるが、『ジャンボ・ジェット機の飛ばし方』などという本といっしょでこれがそのまま役に立つ人はあまりいないだろう。しかし本のデジタル化に関心のある人は最先端の現場を知っておいた方がいいし、ヒントもえられるだろう。
なお「美術館・アート情報artspace」に樫村氏のインタビューが掲載されている。図版が多くてとても面白い。