『<small>哲学の歴史 01</small> 哲学誕生』 内田勝利編 (中央公論新社)
中央公論社は創業120周年を記念して2008年から『哲学の歴史』全13巻を刊行した。近年にない大規模なシリーズで2008年度の毎日出版文化賞特別賞を受賞しているが、新書に近い手軽さで読めることがわかったのでこれから一年かけて紹介していこうと思う。
通史ではあるが各巻とも単独の本として読むことができるし、ゆるい論集なので興味のある章だけ読むというつきあいかたでもかまわないだろう。
各巻は目次の後、「イメージの回廊」として地図や写真、図版が12頁にわたっておさめられている。第1巻でいうと哲学者の彫像の写真が2頁、『ニコマコス倫理学』の15世紀の写本の書影が1頁、エーゲ海をはさんで小アジアからギリシアにかけての地図が見開き2頁、ギリシア的な世界観の基本である四大元素(地・水・火・空気)関連の図版が9頁である。
責任編集者の総論につづいて、ソクラテス以前の哲学者からアリストテレス学派まで、8章にわたって専門の研究者による各論がつづく。章の末尾には灰色の紙に印刷された数頁のコラムがつく。たとえば「ギリシア七賢人」では選ばれる顔ぶれにかなりのバリエーションがあるが、その多くは政治家であり、ギリシア人の考える叡智の原型が示されているとし、「プラトンとアトランティス伝説」ではアトランティスに関する史料はすべてプラトンにさかのぼり、プラトンの創作の可能性を否定できないと指摘した後、プラトンがアトランティスにこめた意図を忖度している。
巻末には索引と参考文献、執筆者略歴、年表、代表的な哲学者の生没年を図示したクロノロジカル・チャートがおさめられている。参考文献は各章ごとに「原典と翻訳」と「研究文献」にわけて記載されており簡単なコメントがつく。パルメニデスの「原典と翻訳」では井上忠氏と鈴木照雄氏の著書があげられているが、コメントはこんな具合である。
現在参看できる日本語の専門的研究書はこれら二書のみ。両書が描き出すパルメニデス像は比較することが意味をもたないほど異質である。
こんなことを書かれたら、読みたくなってしまうではないか。
さて、第1巻である。「総論 始まりとしてのギリシア」ではタレスからアリストテレスにいたる250年間の営みをまず次のように一筆描きする。
もともと彼らのあいだにあっては、哲学とは何か一個の学術として固定されたものではなかった。本質をなすのは「知」それ自体ではなく、むしろ既成の知に満足することなくそれを超え出てさらなる知の高みを求めようとする意欲(ピロソピアー=知の愛求)にあった。
次いで本巻の構成にしたがって、時代順に政治情勢をからめながら学派を紹介していくが、最後に哲学史はアリストテレスが創始したものであり、今日に伝わる断片はペリパトス学派の学説誌をソースとしていると指摘していること、実際は「より広汎な「知」の伝統が、けっして無視できない力で、哲学の形成を促してきた」ことに注意を喚起している。
各論に移ろう。
「1 最初の哲学者たち」
タレスとミレトス学派をあつかう。ギリシアの知の営みはオリエントの先進地域と接した小アジアのイオニア地方ではじまったが、ギリシア人は複数の先行文化に直面することによって、単に受けいれるのではなく相対化しつつ脱神話化して摂取することができたとする。
タレスでいえば、水に着目したその思想の背後にエジプトやバビロニアで一般的だった水神創世神話があったのは確実だが、単に水の神を受けいれるのではなく、宇宙全体を水という統一的視点から把握しようというスタイルはタレス独自だったというわけだ。
宇宙全体を統一的に把握しようとするタレスのスタイルはアナクシマンドロスやアナクシメネスという後継者をうることで確固とした知の営みとして発展していくが、ペルシアの圧力によってイオニアは衰退し、ピュタゴラスらは南イタリアに移住することになる。
「2 エレア学派と多元論者たち」
哲学の新たな中心となったのは南イタリアのエレアで、この地で生まれたパルメニデスは初期ギリシア哲学の分水嶺となった。パルメニデスはあるものはあり、あらぬものはあらぬと同語反復のようなことを説いたが、これはあるものはずっとあり、あらぬものはずっとないということであり、あらぬものからあるものが生じることはないという変化の否定を含意している。ゼノンの有名な背理もこの変化否定の応用問題にすぎない。
パルメニデスの命題は同語反復だけに反論のしようがない。しかし変化はある。変化をどう説明したらいいのか。
この難題を解決するために編みだされたのがエンペドクレスの四大に「愛」と「争い」をつけくわえた宇宙論であり、万物は不生不滅の原子の組みあわせからなるとする古代原子論である。
「3 ソフィスト思潮」
前5世紀はじめにペルシャの侵攻をスパルタとともに阻止したアテナイは政治的にも経済的にも文化的にもギリシア世界の中心となる。アテナイは成人男性市民による直接民主政で治められており、弁論術を柱とする市民教育の需要が増大した。こうしてギリシア各地から一流の知識人が集まった。
彼らはソフィストと呼ばれ、弁論術を教えるところからいかがわしいと見なされることが多かった。普通のアテナイ市民から見ればソクラテスやプラトンもソフィストの一味である。
ソフィストは多彩な背景を持った人々であり一致した教説があったわけではないが、法律・慣習はポリスごとに異なるという相対主義では共通しており、本章ではそれを「ソフィスト思潮」と呼んでいる。
「4 ソクラテス」
ソクラテスはペルシャ戦争勝利後のアテナイの高度成長期に青年時代をすごした。『弁明』では否定しているが、若い頃イオニア自然学にかぶれたことがあるのは確実だろうという。
しかし40歳の頃、繁栄に酔いしれていたアテナイはスパルタとペロポネソス戦争に突入し、20年間の戦いの末に敗北することになる。同盟国は離反し、政治は混乱をきわめる。ソクラテスに対する告発と刑死はこの混乱の中で起きた。
中年以降のソクラテスは自然学探求から離れ倫理の問題に集中するが、この方向転換の説明がクセノポンとプラトンでは異なる。この違いから「無知の知」を深めていく条が本章の読みどころだろう。
「5 小ソクラテス学派」
ソクラテスの一面を引きついだとされるキュレネ学派、キュニコス(犬儒)学派、メガラ学派をあつかう。
不可知論で快楽主義のキュレネ学派、芝居がかった詭弁を弄するキュニコス学派、屁理屈のメガラ学派がいずれもソクラテスから出ているとされているのは興味深い。
「6 プラトン」
プラトンはペロポネソス戦争のさなかに生まれた。23歳の時にアテナイは全面降伏に追いこまれ、その5年後、師であるソクラテスが刑死する。プラトンも亡命を余儀なくされ、以後十年以上にわたって地中海各地を遍歴しギリシア以外の思想にふれることになる。
40歳でアテナイにもどったプラトンはアカデメイアを創設し教育と執筆にたずさわることになる。「優れた資質をもって名家に生まれたアテナイ市民たる者が、国家公共の場から身を退いてあたかもソフィストたちが行っているような仕事に専念することは、途方もなく果敢な決断を要したはずである」とあるが、決断にいたったのは祖国の混乱と師の刑死に直面して教育の重要さに目覚めたからであろう。
プラトンといえばイデア説だが、本章ではプラトンを懐疑主義者と見なす解釈が古来からあったと指摘している。対話篇の中ではイデア説は対立する教説の一つにすぎず、結末では決定不能に宙吊りにされる。実際、プラトンの没後、アカデメイアは古代懐疑論の中心となるが、本章の筆者はプラトンがあらゆる言説を相対化していたと見なすのは短絡だとしている。「ソクラテスの対話的活動が対話相手の思いなしを客観的な吟味の場に引き出すことを意図していたように、「対話篇」とは知と真理を客観的なものとして成立させるためのスタイルであった」というわけだ。
『国家』が政治論として読まれ、主著と見なされるようになったのは19世紀の英国がはじまりだったという指摘は面白い。エリート政治の模範が描かれているともてはやされたが、20世紀になり社会主義やファシズムが台頭すると逆に独裁政治を正当化としてして指弾されるようになる。逆説とアイロニーに満ちた対話篇をモノローグに単純化したことからうまれた誤読である。
『パルメニデス』以降の後期思想にかなりの紙幅をさいている点も本章の特徴だろう。最後の『法律』やオカルト好きの間で重視されている『ティマイオス』の宇宙論を紹介し、『ピレボス』では「ミレトス学派以来の「生ける宇宙」を継承・賦活せしめるとともに、より深い意味をそこに込めた」としている。
面白いと思ったのは実践的な政治家養成を目指したイソクラテスの学校からはたいした人材が出なかったのに対し、実学とは無縁のアカデメイアから多くの政治家が出たという指摘である。アカデメイアは中断はあったにせよ900年近くつづいたのだから立派なものである。
「7 アリストテレス」
アリストテレスはプラトンの最晩年、アカデメイアを離れて小アジアのアッソスやレスボス島で研究教育活動をおこなった後、マケドニア王フィリッポス二世からアレクサンドロスの家庭教師に招聘されている。12年後アテナイにもどるが、アカデメイアに復帰することなくリュケイオンに自分の学校を開いている。
ディオゲネスの『哲学者列伝』にプラトンの言葉として「アリストテレスは、私を蹴飛ばして行ってしまった。まるで仔馬が生みの母親をそうするように」とあることから、アリストテレスとプラトンは不仲だったとか、実力第一なのに学頭に選ばれなかったので飛びだしたとか、いろいろなことが言われてきたが、本章の筆者はアカデメイアの施設はプラトンの個人財産だったと考えられ、プラトンの甥のスペウシッポスが相続するのが自然であり、アテナイ市民でないアリストテレスが継承する可能性は最初からなかったと指摘する。アッソス行きにしてもアカデメイア第三代学頭となるクセノクラテスが同行しており、アッソスの僭主のヘルミアスがアカデメイアと関係が深かったことから、アッソスにアカデメイアの分校が開かれた可能性があるという。
学説についてはアリストテレスの知の区分がヨーロッパの学問の基本となっていること、論理学を支える論証以前の知の形態としてヌースを考え、ヌースは経験から帰納的に生まれるが、個別的な経験を蓄積しても普遍的な原理にはならず、知はわれわれの精神に本源的に備わっていると洞察していたことを指摘している。ヒュームからカントへという近代哲学の大転換をアリストテレスが先取りしていたということだろうか。カテゴリー論の元祖もアリストテレスである。
生々流転する現実を考究する部門として『自然学』がある。有名な四原因説も『自然学』にあるが、『自然学』のあつかいが軽いように感じた。本書に限らず、日本では『自然学』がないがしろにされているような気がする。『動物学』よりはるかに重要だと思うが、なぜ文庫版が出ないのだろう。
一方『魂論』(『心とは何か』という題で文庫になっている)についてはかなりつっこんだ記述がある。アリストテレスの考える魂が思考能力だけでなく、栄養摂取能力も含むことにわれわれは異和感をいだくが、それはデカルト以後の考え方にならされているからだという指摘はわかりやすい。著者は「心的活動も生命の働きの一つの発現のかたちである、というのがアリストテレスの根本的な思想である」としている。身体の変化が感覚知覚だというスピノザを先取りするような視点もあったらしく、アリストテレスの心身相関論は近年注目されているようだ。
『形而上学』は実体論争を中心に紹介しているが、きわめて難解とだけ言っておこう。
アリストテレスの幸福――善く生きる――とは何かを追求して倫理学という学問をはじめたが、人間の生き方は社会のあり方と不可分なのでアリストテレスの倫理学は政治学と連続していると言える。本章では政治学は倫理学との関連で論じられている。
興味深いのは最後にとりあげられる奴隷肯定論である。本章の著者はアリストテレスは奴隷制度を自明のものとは考えていなかったし、当時の奴隷制度を無条件に肯定しているわけでもなく「戦争捕虜のようなかたちで多くの人々が奴隷とされていることへの批判」が潜在的に含まれていると弁護しているが、逆にいうと知的・身体的能力が不十分な人間は奴隷にしていいことになり薮蛇だろう。天下のアリストテレスが奴隷を認めていた事実は大きく、トドロフの『他者の記号学』によると、ほぼ2000年後の16世紀にアメリカ先住民の奴隷化の是非をめぐってもちあがったバリャドリード論争でも『政治学』の奴隷肯定論が持ちだされたということである。
「8 テオプラストスと初期ペリパトス学派」
アリストテレスは弟子たちと散歩しながら講義をおこなったのでアリストテレス学派のことを
アリストテレスの学統はエウデモスがロードス島に開いた学園とデメトリオスがプトレマイオス朝に招聘されて作ったアレクサンドリア図書館で継承され、一世紀のアリストテレス復活を準備したとされているが、問題はリュケイオンでつづいたペリパトス学派である。
アテナイのペリパトス学派でもっとも有名なのは第二代学頭に指名されたテオプラストスだ。テオプラストスはレスボス島出身でアカデメイアに学び、アッソス行以降アリストテレスと行動を共にしたと見られている。
多数の本を書いたと伝えられるが、今日完全なかたちで残っているのは『植物誌』や『人さまざま』くらいしかなく、大部分は失われてしまった。
失われた著作の中でもっとも重要なのは『自然学説誌』だろう。自分の時代までの哲学者の学説を集大成した本で、ディオゲネス・ラエルティオスの『哲学者列伝』やアエティオスの『学説誌』、ストバイオスの『自然学抜粋集』などの種本だったとされている。テオプラストスが『自然学説誌』をまとめなかったらソクラテス以前の哲学者の断片の多くは後世に残らなかった。
資料を重視するアリストテレスの研究スタイルはペリパトス学派に受けつがれ、数学などさまざまな分野の学説誌がまとめられたらしい。資料の取捨選択や配列はペリパトス学派の見解が軸になる。見えないかたちながら他学派にあたえた影響はすこぶる大きい。
資料を集め事実に即して考えるという学風はアレクサンドリアで文献学を生んだが、リュケイオンでは独自学説の発展をうながした。アリストテレスの見解に異を唱えるのも自由だった。テオプラストスはアリストテレス形而上学の要である「不動の動者」を否定したと伝えられるし、論理学では様相の概念をくわえてストア派の命題論理学に近いところまでいっていたらしい。アリストテレスの『魂論』は魂を身体を統括する原理とみる立場と身体のあり方とみる立場の二つを含んでいたが、ペリパトス学派は後者に向かい、魂の存在を否定する者まで出たという。独自学説が発展した結果、ペリパトス学派の求心力が低下し学派としての存在感が薄れていったということらしい。
アリストテレスの見解に距離をとったペリパトス学派の活動は一世紀のアリストテレス復活以降忘れられてしまったが、近年本格的な研究ははじまったそうである。今後の展開が楽しみである。