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『鷗外の恋 舞姫エリスの真実』 六草いちか (講談社)

舞姫エリスの真実

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 昭和8年に森於莵が父親のドイツ人の恋人の存在をおおやけにして以来つづいていた『舞姫』のモデル探しに終止符を打った本である。

 著者の六草いちか氏はベルリンに20年以上在住するジャーナリストで、リサーチの仕事もしているという。本業の合間に行きつもどりつした探索の過程が書かれているが、まさにプロの仕事で、次々とくりだされる的確な背景情報に圧倒される。的確な背景情報を一つ書くにはその十倍、いやそれ以上の知識が必要になることを考えると気が遠くなってくる。リサーチのプロが本気になるとここまで調べることができるのである。

 六草氏がつきとめたエリスはフルネームをエリーゼ・マリー・カロリーネ・ヴィーゲルトといい、1866年9月15日にシュチェチン(現在はポーランド領)で生まれた。2歳下のアンナという妹がいる。1898年から1904年まで帽子製作者としてベルリン東地区に在住したことが確認されており、小金井喜美子が鷗外からの伝聞として記した「帽子会社」に勤めているという内容と符合する。

(本書の続編の『それからのエリス』で六草氏はエリーゼの親族をつきとめて写真を入手し、さらに彼女が日本に旅行したという話が一族に語り継がれていたことを確認している。)

 父ヨハン・フリードリヒ・ヴィーゲルトは1839年オーバヴィーツコ生まれで、フリードリヒと呼ばれていた。ブランデンブルク第三輜重大隊に勤務した後、ベルリンで除隊。そのままベルリンにいついて銀行の出納係となったが、1882年頃に亡くなっている。

 母ラウラ・アンナ・マリー・キークヘーフェルは1845年シュチェチン生まれで、マリーと呼ばれていた。ベルリンに出てお針子をしていた頃にフリードリヒと知りあい、エリーゼを身ごもって軍人のための教会であるガルニゾン教会で結婚式をあげた。エリーゼの生地がシュチェチンとなっているのは実家にもどって出産したからだろう。夫と死別したマリーは仕立物師として娘二人を育てあげた。鷗外の三番目の下宿の家主であるルーシュ夫人はマリーに仕事をまわしていた。

 鷗外と知りあった頃、エリーゼは20歳か21歳だった。『舞姫』の決定稿ではエリスは「十六七なるべし」となっているが、第一稿には「まだ二十にはならざるべし」とあり年齢的にも一致する。

 母マリーは自分名義で部屋を借りているので下流よりは上の暮らしをしていたと思われるが(ベルリンでは入居審査が厳しく又貸しが多かった)、財産のない母子家庭では日本までの旅費の工面が問題となる。日本までの船賃は一等船室1750マルク、二等船室1000マルク、三等船室440マルクで、エリーゼは一等船室で来日している。陸軍が鷗外に支給した一年間の留学費が当初1000円(4000マルク相当)だったことを考えると、1750マルクはかなりの額である。

 六草氏は鷗外には翻訳の副収入(原稿用紙1枚で12マルク程度)があったので十分可能だったとし、傍証として一等船室を選んだことをあげている。当時は一等も二等も個室だったから、エリーゼが自分で船賃を出したなら二等船室にしたはずだというのである。彼女は鷗外と結婚して日本に永住する覚悟で出国しただろうから、異国の生活にそなえて倹約すると考えるのが自然だろう。一等船室は鷗外が花嫁のために奮発した可能性の方が高そうである。

 エリーゼの周辺が明らかになった結果、『舞姫』には多くの事実や実景が埋めこまれていることがわかってきた。第一稿と決定稿の間で鷗外はエリスの年齢を下げるとか、教会の場所を曖昧化するといった改変をおこなっているが、いずれも事実をフィクション化する方向の改変だった。

 根強く唱えられてきたエリスのモデルがユダヤ人だったとか、エリスはユダヤ人として描かれているという説はまったく根拠がなくなった。

 エリス=ユダヤ人説は一部には以前からあったようだが、1989年にテレビ朝日系列で放映された「百年ロマンス・舞姫の謎」で広く知られ、鷗外研究者の間でも話題になって『『舞姫』エリス、ユダヤ人論』という論集まで生まれている。「百年ロマンス」ではエリスのモデルはエリーゼ・ヴァイゲルトという鷗外より5歳年上のユダヤ系の人妻としていたが、作中のエリスと違いすぎるのでヴァイゲルト家のサロンで奉仕していた貧しいユダヤ人娘ではないかとか、エリーゼ・ヴァイゲルトという名前の未発見の女性(ヴァイゲルトという姓からユダヤ人とされる)がいるのではないかといった説が広まった。鷗外記念会の機関誌「鷗外」の88号には今野勉氏の番組と著書に関する感想や批判が掲載されているが、エリス=ユダヤ人論が鷗外研究者の間に深く浸透している現状がうかがえる。

 こうした説が根拠とするのはヴィーゲルトもしくはヴァイゲルトという姓がユダヤ人特有の姓だという頭ごなしの断定だが、実際はどうなのか。六草氏は驚くべき材料を持ちだして決着をつけている。1939年にナチスがおこなった例の国勢調査である。

 この国勢調査ユダヤ人をリストアップするために行なわれたもので、四人の祖父母についてユダヤ系かそうでないかを記録するようになっていて、1/2ユダヤ人とか1/4ユダヤ人という判定ができ、1941年からはじまったユダヤ人強制収容に威力を発揮した(その際活躍したのがIBMのパンチカード・システムで、エドウィン・ブラックの『IBMとホロコースト』に詳しい)。

 まさかと思ったが、その時のデータのうち、ユダヤ人とユダヤ人と同居していたドイツ人60万人分が保存されており、制限つきだが検索可能な形で閲覧できるというのである。

 60万人のうちヴィーゲルト姓は3世帯7人いたが、2人はユダヤ系女性と結婚した非ユダヤ系男性だった。生存者が一人もいないということで六草氏は特別に生データの閲覧を許されたが、ユダヤ系の5人もユダヤ系なのは父方の祖母か母方の祖父母に限られ、父方の祖父がユダヤ系という例は一人もいなかった。ヴィーゲルトという姓はユダヤ人の姓ではないのである。

 ヴァイゲルト姓はドイツ全土で52人、ベルリン市内で29人いた。ヴァイゲルト姓を伝えるユダヤ人がいたのは確かだが、典型的なユダヤ姓かどうかを判定するためにナチスが政権をとる以前の1930年の電話帳と、ユダヤ人の強制収容がはじまって以後の1943年の電話帳の比較をおこなっている。ヴァイゲルト姓は58世帯から34世帯に減っているが、典型的なユダヤ姓とされるコーンが1300世帯から28世帯に激減していることを考えると「ヴァイゲルト姓の中にはユダヤ人もいた」と言えても「ヴァイゲルト姓はユダヤ姓である」とは言えないという結論になる。

 エリスの住居はゲットーに設定されていて、夜間外出ができないので質屋に行けなかったという説についてはベルリンにはそもそもゲットーはなかったと一蹴している。

 鷗外と出会った頃のエリーゼの住所はまだわかっていないが、鷗外の第二の下宿の界隈は貧民街でユダヤ人が多かった。『舞姫』に「頰髭長き猶太教徒の翁」のたたずむ居酒屋が登場するのはエリスの出自を暗示するためではなく、単に実景を写しただけと考えられる。エリスと豊太郎が出会った「クロステル巷の古寺」がシナゴーグという説もあったが、ヴィーゲルト家と関係の深いガルニゾン教会であることが確定した。『舞姫』にはユダヤ的なシンボルがちりばめられているとする見方があったが、単なる半可通の思いこみだったのだ。

 本書で一つ引っかかっていることがある。六草氏がエリス探しをはじめるきっかけとなったM氏のことである。

 射撃練習の後の会食で鷗外と『舞姫』の話題が出たおり、M氏というドイツ人が発した「オーガイというその軍医、その人の恋人はおばあちゃんの踊りの先生だった人だ」という言葉がすべての発端だったが、当該人物はエリーゼが来日した1888年生まれだったとわかり最初の探索は不発に終わる。

 六草氏とM氏のやりとりを読んでいるとM氏の発言はきわめて具体的であり、口から出まかせを言っているようには思えない。もしかすると第一次大戦前夜にベルリンに留学した日本人軍医が踊り子と恋に落ちるという、『舞姫』を地でいくような出来事があったのかもしれない。その頃には『舞姫』は広く読まれていたわけで、ベルリンに留学する軍医が読んでいたとしてもおかしくない。M氏の話の真相が知りたくなった。

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