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『ロラン・バルト』 アレン (青土社)

ロラン・バルト

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 英国のラウトリッジ社から比較文学を勉強する学生向けに出ている「シリーズ現代思想ガイドブック」の一冊である(邦訳は青土社から)。ガイドブックだけに随所に用語解説のコラムをはさみ、各章の末尾に要約を載せている。

 同シリーズからはレインの『ジャン・ボードリヤール』をとりあげたことがあるが、本書も訳文が読みやすい。近年、現代思想関係の翻訳はずいぶんよくなったが、平明なはずの概説書が平明な日本語で提供されるようになったのはけっこうなことである。

 原著と異なるのは巻末の「読書案内」だ。バルトに限らず英訳本では英訳本独自の編集がおこなわれることが多く、英米で独自に編まれた論集もすくなくない。英訳本の表題だけでは何という論文の話をしているのかわからないことがよくあるのだ。本書ではアレンのコメントを本国版に準拠して再構成し、さらに邦語文献を追加しており、「読書案内」がちゃんと「読書案内」になっている。

 簡単な略歴の紹介の後、「キー概念」の部では主要著作を年代順に、時代情況に即しながら紹介している。

 本書では時代状況に即すという点が重要である。バルトは変貌をくりかえし、「エクリチュール」のような基本的な語の意味も初期と後期ではずいぶん異なるが、時代状況を考慮しないとどのように変わったかが本当にはわからないからだ。

 『零度のエクリチュール』の頃のエクリチュールは選択不可能な二つの条件(国語と文体)と対比される選択可能な書き方、表現様式のことだったが、その背景には本書で詳しく解説されているようにサルトルのアンガジュマン文学論がある。初期のバルトはサルトルの圧倒的な影響下にいたのである(アンガジュマン文学論からはすぐに離脱するが、サルトルの想像力論の影響は最晩年の『明るい部屋』までつづいている)。

 若い人は内田樹氏の『寝ながら学べる構造主義』を通してバルトとエクリチュールを知るケースが多いようである。内田氏の解説は非常にわかりやすくすぐれているとは思うが、単純化しすぎている部分もあるのである。

 バルトがエクリチュールを選択可能な書き方という意味で使っていたのはアンガジュマン文学論の影響下にあった初期の話であって、ポスト構造主義の時代になると異なる意味あいがあたえられるようになるのだ(エクリヴァンスと対比されたエクリチュール)。またバルトは人間を「エクリチュールの囚人」ではなく「言語の囚人」と考えていたはずである。内田氏の影響はきわめて大きいので、あえて一言ふれておく。

 『ラシーヌ論』をめぐるレイモン・ピカールとの論争についてはカルヴェの『ロラン・バルト伝』の後に出たにもかかわらず、従来通りバルト側から挑発したような記述になっているのは残念だ。距離を置いてみればバルトが一方的に得をしたように見えるが、同時代的にはそんな甘い状況ではなかったようである。

 あるいはアレンはカルヴェの描きだした弱いバルトに反発したのかもしれない。カルヴェはバルトの亡くなった3週間後にサルトルが亡くなったためにバルトの死がかすんでしまったと書いたが、アレンは「しかしながらカルヴェの報告を額面通りに受け止めて、バルトの死を悲喜劇のアフター・ピースに翻訳してしまえば、わたしたちは間違いを犯すことになるだろう」と反論している。

 科学を標榜していた構造主義時代から、テクスト論を標榜するするポスト構造主義時代への変わり目は「物語の構造分析序説」と『S/Z』の間の時期とする見方が多かったと思うが、アレンは「物語の構造分析序説」の段階ですでにポスト構造主義への移行がはじまっており、『S/Z』はテクスト論の「もっとも完全な報告」と位置づけている。アレンが指標とするのは間テクスト性だが、この見方は十分説得力があると思う。

 後期のバルトは意味伝達の記号論から意味生成のテクスト論へ完全な転回をとげるが、アレンは意味生成のテクスト論に突き進んだ背景にはアマチュアピアニストとして演奏を楽しむ経験があると指摘している。

 バルトによる能動的な読書の推奨は、音楽の演奏についての指摘を反映している。同様に、バルトによる音楽の愛好的生産の称揚も、身体的な、アンガジェした、音楽への能動的関係に関わっている。いま音楽は、大衆文化のなかで商品化されること甚だしく、そこに立ち向かうのが音楽のパフォーマンスなのである。

 手すさびの音楽と同一視するのはいかがかと思わないではないが、そうした面があるのは事実だろう。

 アレンはバルトの生涯をつらぬく姿勢を反骨にもとめている。初期においては『神話作用』に見られるようにブルジョワ文化に対する反骨、1970年以降は猛威をふるう大衆文化に対する反骨だ。

 いわんとすることはわかるが、ノルマリアン的なブルジョワ蔑視、大衆蔑視とは違うということは押さえておいた方がいいのではないかと思う。

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