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『ラノベのなかの現代日本 ― ポップ/ぼっち/ノスタルジア』波戸岡景太(講談社現代新書)

ラノベのなかの現代日本 ― ポップ/ぼっち/ノスタルジア

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「おとなにも読めるラノベ?」

 ラノベとは何か? ライトノベルの略称だ、くらいはわかる。でも、実際に手に取ったことはないし、手に取る気もないし、どうせ中高生の「こども」が読むくだらん小説だろうと高をくくって、そのくせ「まるでラノベじゃんか」といったセリフだけは口にする「おとな」たち。

 明らかに世代間の断絶があるのだ。本書の目的はそんな断絶をきちっと整理しましょう、理解しましょう、というところにある。単なる断絶に見えるものにも実はつながりがあって、起源や影響があって、でも、微妙な違いもある。別にラノベを擁護しようというのでもなければ、弾劾しようというのでもない。病理として解剖しようというのでもない。あくまで現代日本を理解するための端緒にするのだと著者は言う。本書には「古典的ラノベ」からの抜粋が散りばめられ、さながらミニ・アンソロジー。その語り口からは自ずと著者のラノベ愛も伝わってくる。でも、あくまで中立的なスタンスを保ちつつ、歴史語りに重心を置こうとする意図が見える。

 本書でラノベ理解の鍵になるのは「ぼっち」という概念である。「ひとりぼっち」を語源とする「ぼっち」の位置は時系列的には明確だ。まず学園紛争世代に対して違和感を抱きアメリカ文化へとのめり込んでいった村上春樹的「ポップ」世代がいた。その後にその「ポップ」に乗り遅れた「ポストポップ」世代がくる。そこで強力な勢力となったのが「オタク」である。穂村弘村上隆といった人々は「オタク」を相対化しつつも「オタク」の旗頭ともなった。しかし、「オタク」はやがて消費文化の波の中で単なるひとつのスタイルとして吸収されてしまう。「ぼっち」がくるのはその後だ。ラノベ世代はもはや「オタク」ですらないのである。

 「ぼっち」という語の由来が示すように、ラノベ世代の最大の特徴はその孤独の形にある。「オタク」が自己卑下と排他性に支えられていたのに対し、「ぼっち」はそうした「オタク」のあり方も含めて「大衆性」と距離をとる。「ぼっち」はあくまで一人なのである。「オタク」世代の典型的人物像が「ドラエモン」の主人公「のび太」だとすると、ラノベ世代の主人公もまた「のび太」なのだが、こちらは「オタク」のように自己卑下をしたり好みを軸に群れ集ったりしなくなった「のび太」なのである。『涼宮ハルヒの憂鬱』のクライマックス部を引用しながら著者は、ファミレスやコンビニやラブホテルが点在するオタク世代の典型的な都市風景に、もはや何の未練も感じなくなった「ぼっち」の感性の在処があると指摘する。

 フツーの世界よりも、アニメ的特撮的マンガ的物語の世界よりも、闇に包まれた閉鎖空間の方が、ずっと現実的で楽しいと感じられる感性が、ハルヒをして、ラノベならではの「ぼっち」なヒロインの原型たらしめているのだ。(87)

 とはいえ、「オタク」と「ぼっち」はかなり近接しており、「え?どこが違うの?」という意見も出そうだが、そのあたりを想定してか、著者はかなり丁寧にオタク世代の「のび太」とラノベ世代の「のび太」の微妙な違いを説明してくれる。詳細に興味のある人は是非本書のページをめくって確認していただきたい。

 他方、本書のページの多くはラノベ以前の現代日本文化論にも割かれている。村上龍村上春樹あたりを起点とした学園紛争後の日本が、アメリカ文化に憧れ、それを内在化し、やがてはそうした葛藤そのものが消滅してラノベ世代に至った経緯が、日本文化の大きな流れとして描かかれる。終盤で持ち出されるノスタルジア/ノストフォビア(帰郷嫌悪)という概念は、故郷に対するアンビヴァレントな感情を示すものだが、ラノベ世代のノストフォビア特有の「軽さ」を指摘しつつ、彼らを「家出のできない」世代として提示した結末部には、本書の芯となる視点が示されている。

 ラノベのなかの「ぼっち」たちにとって、ノスタルジアは積極的な精神の動きでなく、どこまでも受動的なものだ。終戦以来、幾度もの断絶を抱え込んできた「現代日本」という名のノスタルジアの果てで、思い出のない人間の思い入れほど残酷なものはないという横寺青年の洞察は、ラノベという現代の「望郷の歌」の切実さを、どこまでも物語ってやまない。(176)

 さて。そういうわけでラノベ世代の位置はだいたいわかるわけだが、肝心のラノベそのものはどうだろう。本書にふんだんに引用されるラノベの抜粋を読んでも、ひょっとすると「何がいいのかさっぱりわからん」という人もいるかもしれないので、最後に筆者なりの感想を付しておきたい。以下に本書から孫引きするのは、『涼宮ハルヒの憂鬱』の一節である。

 そこは部屋。俺の部屋。首をひねればそこはベッドで、俺は床に直接寝転がっている自分を発見した。着ているものは当然スウェットの上下。乱れた布団が半分以上もベッドからずり下がり、そして俺は手を後ろについてバカみたいに半口を開けているという寸法だ。

 思考能力が復活するまでけっこうな時間がかかった。

 半分無意識の状態で立ち上がった俺は、カーテンを開けて窓の外をうかがい、ぽつぽつと光る幾ばくかの星や道を照らす街灯、ちらちらと点いている住宅の明かりを確認してから、部屋の中央をぐるぐる円を描いて歩き回った。

 夢か? 夢なのか?

 見知った女と二人だけの世界に紛れ込んだあげくにキスまでしてしまうという、フロイト先生が爆笑しそうな、そんな解りやすい夢を俺は見ていたのか。

 ぐあ、今すぐ首つりてえ!

 日本が銃社会を免れていることに感謝すべきだったかもしれない。手の届く範囲に自動小銃の一丁でもあれば、俺は躊躇なく自分の頭を打ち抜いていただろう。

 ひとつの文に「ぽつぽつと光る」「ちらちらと点いている」「ぐるぐる円を描いて」などとあると、いかにも稚拙というか無防備に見えるかもしれない。「そこは部屋。俺の部屋」といった書き方も何だか雑に感じられる。でも、無防備さや雑さそのものがウリではなさそうだ。引き替えに獲得しているものがあるとすれば、それはスピード感と、切れのある「突っ込み」だろう。

 考えて見れば、頻繁な段替えも自分自身の語りに対する突っ込みとして機能している。あくまで突っ込みだから、鋭い洞察や、深い反省にはならない。短く、浅くやるところがポイント。カッターナイフで皮膚の表面数ミリをぺりっとめくるような、突っかかりや蹴手繰りをことばで行うのである。それがあちこちで繰りかえされる。「夢か?」とか「ぐあ、」といったつぶやきめいた箇所だけでなく、先の「そこは部屋。俺の部屋」のようなところも、いちいちのことばが前のことばをめくり返すようにして投げ込まれている。「日本が銃社会を免れていることに感謝すべきだったかもしれない」といったほとんど意味のないコメントも、そんなカッターナイフ的突っ込みととれば、許容できるのかもしれない。

 そこで急に英文学モードになって言うと、これはあちこちにifを内在させた語りと言ってもいいのかもしれない。ほとんどの言葉が、「~だったりして」という仮定のもとに一種の条件節として語られており、言ったそばから取り消しがきくようになっている(「出してから消せるメール」みたいに)。でも、「これは取り消しがきくんですよ」ということを示すのは、意外と難しい。読者というのは元来まじめなもので、どうしても本気にとる。上手に――それこそ本気で――本気にならないにはどうしたらいいか? 考えて見れば、それは文学の長年の夢だった。というわけで、なんだ、ラノベだって結局目指すところはそれなんだ、というのが筆者のなかにむくむくと起きつつある感想なのである。


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