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『無能の人』つげ義春(新潮文庫)

無能の人

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―「蒸発」不能者を慰安する水墨漫画―

 わたしには潜行する癖(へき)がある。石を拾う。随分前のこと、居間に転がった無数の石を一念発起して庭先へ放逐してからというもの、持ち帰る頻度こそ激減したが、石を見ると気がそぞろになる。ポケットを重たくして帰宅する日常の再発が、ふとした折に脳裏を過(よ)ぎり、その幸と不幸を秤に掛けていたりする。


 けれども、石拾いと石売りの間には大きな懸隔がある。前者の延長にありながらも、後者は間違いなく世捨て人の範疇に足を突っ込んでいる。川本三郎は、「『無能の人』は、現代の隠者に近い生活をするにはどんな商売があるかとつげ義春があれこれ知恵を絞っている一種の、“就職情報”」であると評しているらしいが、この見解は正しい。

 それにしても、つげ義春の隠者生活には、妻子が付き物である。第三話まで顔が描かれなかった妻は、都合上、否応なく顔を見せ始めるが、息子にいたっては、冒頭から堂々登場し、鼻をすすり、熱を出し、泣き喚く。健気(けなげ)な息子は、母親のチラシ配りのパートを手伝い、夕刻になると、売れない石を並べた多摩川岸のテントに、父親を迎えに赴く。稀な家族旅行に興奮し切っては、気遣いで雁字搦めになる。薄汚れていて、頭もけっして良さそうでなく、おまけに不細工な少年は、ありうる限り両親に寄り添っている。顔を消去されていた妻にしたところで、夫の甲斐性のなさに始終文句を言いつつも、離縁の口上を脅しにするでもない。旅の発案に浮足立って、小躍りすらする。

 このような次第で、『無能の人』の隠棲は、所帯を無条件セットにしている。家庭崩壊しないという原則は、『無能の人』にとって不可侵のようだ。

 総じて、妻子を道連れとした隠者生活は、貧乏に遣り切れない現実味を添え、人生をしみったれたものにする。一家ぐるみの極貧を引き受けて「就職活動」に勤しむという強迫的生活主義に満ちた『無能の人』には、徹底してロマンが欠落している、はずである。金の融通と生活臭は、ロマンに余地を残さないからだ。したがって(?)、このタイプの隠棲から純型隠棲へと移行するために必要なのは、「蒸発」にほかならない。その暁には、隠棲は歴としたホームレスとなる。ところが、つげ義春の不可侵所帯セットは、蒸発を断固として禁じ手とする。

 「蒸発」と題した第六話では、蒸発の既往が囁かれる古本屋の山井の過去が綴られるが、その山井にしたところで、ホームレスになるどころか、かつての家庭を去って、現在の家庭へ連れ込まれる顛末と来ている。この連れ込まれるというのが侮れない特徴で、あくまで転がり込むのではなくて、事情と状況(具体的には後家さん)が彼を新たな家庭に引き込むのである。徹底した無抵抗と受け身の姿勢は、怠惰と無気力の表徴であるが、つげ義春の反家庭崩壊思想がそこにも窺える。

 山井は自らのあり方を、「‘いながらにしていない、あってない(居て居ない)’と観想するための具体的方法」と形容し、宗教的解釈を施していたりする。事実上廃業している古本屋の店先で寝込む山井は、「どうせ私はいずれ帰るのだから、ほんのちょっとこっちに来ているだけですから」と、思わせぶりに彼岸と此岸を並べるものの、結局、彼岸という故郷(ホーム)を前提にしているのだから切なくなる。

 隠棲スケールに照らし合わせるならば、山井の半端な隠者生活は、蒸発の既往のある分だけ、主人公(どう見てもつげ義春自身の写し絵である)よりも純型に近く、稀代の放浪者よりも亜型に属する。後者の放浪者といえば、柳の家井月なる漂泊者(実在の人物らしい)や、第三話の「鳥師」など、所帯セットから外れた純型隠棲者を描くことに、つげ義春はかなりの紙幅を割いている。柳の家井月の辞世の句への情緒的共鳴と、鳥人の孤立超然とする姿への質朴な憧憬は、水墨画のように淡く全編の背景に控えているが、主人公は別段それに焦がれるわけではない。焦がれることすらしない、というのが『無能の人』の特徴である。

 漂泊と蒸発のロマンに惹かれながらも、家庭に留まり、さりとて生産的労働に勤しむでもない生活の惰性は、おそらく多くの社会人にとって、身に覚えのあるところだろう。蒸発する勇気とエネルギーには欠け、ホームレスになり切れない程度には責任感がある人々は、往々にして、家庭という此岸から漂泊の彼岸を夢見ている、とわたしは思う。

 けれども、大多数の人間は、そうした現実と夢を不承不承ながらも分別し、間違っても河原の石売りなどにはならない。そもそも、そのような職業など発想すらしない。夢を見るか蒸発するかの二者択一だけがあって、『無能の人』が示す中間状態、つまりは妻子込みの隠者生活など思いつきもしないのだ。

 そして、このありえないはずの半端さが、多くの潜在蒸発者を惹きつけて、感情移入を可能にさせる。二者択一という選択肢以外の可能性の提示、川本三郎いわくの“就職情報”は、蒸発不能者を少なからず慰安するのではないかと思う。石を拾えても石売りにはなれない自分などは、そぞろ神を語ってもそれに憑かれることはない。それでいて、その安泰が幸であるとは骨から達観しきれないから、拾われた石が放逐された今も、『無能の人』は我が家の居間に居場所を得ているのかも知れない。


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