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『全国アホ・バカ分布考~はるかなる言葉の旅路』松本修(新潮社)

全国アホ・バカ分布考~はるかなる言葉の旅路

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「日本人は近代以前からずっとテレビを待ち望んでいた」

 テレビと方言では相性が悪いはずだ、と思い込んでいた。中央発信型のテレビ番組は、各地に根付いてきた地方独特の話し言葉を標準語や関西弁によって風化させてきた。だから私も大好きな、関西の超人気番組『探偵!ナイトスクープ』が、日本各地のさまざまなアホ・バカ方言の分布を大規模調査した結果を番組とし(1991年、朝日放送)、その番組のプロデューサー松本修氏がその調査結果を方言関係の学会で報告したという話は確かに知っていたが(確か、その学会発表の様子をニュースで見た覚えもある)、しかし特に興味を持つことができなかった。テレビが方言を救うなんて、何だか罪滅ぼしか誤魔化しのようなものではないか。だから私は、その番組による方言調査と学会報告の一連の過程をドキュメントとして描いた本書に関しても(1993年、大田出版)長い間、手に取ろうともしなかった。しかし今年の春、『探偵!ナイトスクープ』という番組の面白さについて改めて考えなおす機会があって、その参考資料の一つとして、文庫になった本書を何気なく読んで驚いた。テレビと方言とは相性が悪い、という私の常識はすっかり覆された。両者は、必ずしも相性が悪いわけではないようだ。というよりも、「方言とは何か」とか「地域の伝統文化と近代的なメディアはどういう関係を持つのか」という問いに関して、私は自分の常識的な考えを根本的に改めざるを得なくなった。

 松本修がこの番組の「全国アホ・バカ分布」調査によって明らかにしたのは、柳田国男の方言周圏論の正しさである。方言周圏論とは、同じ方言が、京都を中心にした同心円状の地域に分布しているという仮説である。つまり、ある方言は、むかし京都で流行った言葉が、池に石を投げ込んだときに出来る波紋のように、地方の周縁へ周縁へと同心円的に伝播して行った結果としてその地域に残存しているのだ。柳田が例に挙げたのはカタツムリ。カタツムリは近畿地方では「デデムシ(デンデンムシ)」と呼ばれ、その東西の地域(東海地方や福岡県)では「マイマイ」と呼ばれ、さらにその周囲の東西では「カタツムリ」とか「ツブリ」と呼ばれ、最後に京都から一番離れた東北と九州の一部では「ナメクジ」と呼ばれている。だからこの理論に従えば、京都で一番古く流行った古語が東北の方言「ナメクジ」で、一番最近の流行語が近畿の方言「デデムシ」ということになる。全国各地の市町村の教育委員会へのアンケート調査によって明らかされた、『探偵!ナイトスクープ』の「アホ・バカ」表現の分布調査の結果も、このカタツムリの場合と同じだった。文庫のカバー裏に印刷されている「分布図」を見ればわかるように、近畿圏のアホを一番小さな円にして、アヤカリ、アンゴウ、バカ、タワケ、ボケ、ダラ、ホンジナシなど、18の同心円が日本列島の中心(京都)から周縁へと何重にも積み重なっている。

 この調査結果の持つ意味は、見かけよりもずっと重大である。まずアホは関西特有の文化で、バカは関東特有の文化だという私たちの根強い常識が崩される。バカもまたむかしの京都の流行語が伝播した表現なのだから、決して関東地方に特有の言葉なのではない。じっさいに京都を中心に描いた同心円上にあって、関東とちょうど反対側の地域にある中国・四国・九州などにもバカ表現は広く分布している。それに対してアホは単に近世の京都の流行語であり、近畿一帯に流行の輪が広がったところで明治維新になったために、関西の方言に留まったというのだ。もし明治維新がなければ、きっと今頃関東では「アホ」が大流行し、関西では「アホ」に変わる別の新しいアホ表現が流行していただろう。つまり、方言周圏論では、私たちが常識として持っているような東西文化圏という考え方を壊すどころか、言語文化に関する地域の土着性をほとんど認めない。何しろすべての方言は、その地域が京都の流行語を受け入れた結果として話されているというのだから。

 何とも常識外れの理論ではないか。私たちは常識的には、それぞれの地方に根ざした独自の言語表現として方言があり、その自発的な言語表現を政府やメディアによって中央から強制された標準語が破壊してきたのだと考えてしまう。だからテレビと方言は矛盾するはずだ、と。しかし本書が明らかにしたのは、日本人はずっと昔から中央の流行語に魅惑され、新しい流行表現を積極的に採り入れて日常語としての「バカ」を表わそうとしてきたという事実だ。だからいわば、日本人は近代化以前から、あらかじめテレビ文化を待ち望んでいたとも言えるのだ。日本人は古くから常に日常生活のなかで、使い慣れた言葉よりも、耳慣れない新奇な表現を使って遊戯的にコミュニケーションをすることを楽しんできた。そういわれれば確かに、現在の子どもたちが、「そんなの関係ネー」とか「グー!」といった新しい流行語を、テレビメディアを通して次々と消費していく様子に私たちはいつも驚かされるだろう。そうしたメディア現象を、私たちはついついメディアの情報操作力に子供たちが煽られた消極的結果であるかのように考えてしまう。しかしそうした流行語現象は(速度こそもっと遅かったとはいえ)もっと日本社会の古くからの伝統に根ざした、私たちの言葉への積極的な欲望の表れだったらしいのだ。ついでに言えば、松本氏は本書の後半で、アホやバカの語源を白楽天の詩などの中国語の典籍に求めている。京都の僧侶や知識人たちが読んでいた最新流行の外国語文献が、新しいバカ表現の発信源だったのだ。つまりアメリカ占領下でアメリカのハリウッド映画やポピュラー音楽や西欧文学に魅惑されるよりずっと以前から、外国かぶれであることもまた日本の伝統だったらしいのである。

 こうして、伝統文化と近代文化の二項対立を覆してしまう理論を実証してしまっただけでも、本書は充分に衝撃的な力を持っている。だが、さらに本書は日本文化についての、もう一つの重要な論点を提起していることも指摘しておこう。それは、日本語におけるさまざまなバカ表現の持つ、婉曲的で愛に満ちた豊かなニュアンスのことである。著者は、さまざまなバカ表現の少しずつ異なったニュアンスを調べていくなかで、それらに「狂っている」というような差別的意味が含まれていないことを発見していく。例えばバカとは「乱暴・狼藉を働くこと」であり、ホンジナシは「ぼんやり者」であることを指し、アンゴウやタクラダは「間抜け」を意味し、「ボケ」は気持ちの穏やかな人というニュアンスを持つ。つまり日本人は、アホ・バカ表現を日常生活のなかで、まるで寅屋のおいちゃんやおばちゃんが寅さんに「バカだねえ」と言うときのように、その相手に対する愛情をこめて使い続けてきたのだ。そのような主張に基づいて松本氏は、琉球の「フリモン」というバカ表現が、辞書掲載の通説では「気の触れた者=狂人」となっていることが誤りであって、本当は「ぼんやり者」という意味であると、音韻規則などによって学術的に覆してしまう(本書の白眉のひとつである)。

 この松本氏の「愛情あるバカ表現」へのイデオロギー的なまでのこだわりは、『探偵!ナイトスクープ』というテレビ番組の本質と深く結びついているといえよう。この番組に出演する素人は、ほとんどアホかバカである。一目惚れしたマネキンと結婚したいと願望し、本当に親を呼んで結婚式まで挙げてしまう若い女性や、番組が用意した役者のゾンビと本気になって闘う子供たちや、ルー大柴を死んだ自分のお祖父さんであるかのように思って涙する一家は、一歩引いたところから冷めた目で観察すれば、ただの狂人にしか見えない。しかしこの番組は、決して彼らを差別的に見下そうとはしない。あくまで「アホやなあ」とやさしい肯定的な気持ちで接するから、私たち視聴者もその素人たちのアホぶりに共鳴して心から笑い、ときに感動して涙するのである。つまり松本修が方言としてのアホ・バカのニュアンスに発見していったのは、彼自身の作るテレビ番組の面白さを支えている日本社会の文化的基盤だったのだ。

 自分では良くわからない情熱で、視聴者の依頼にすぎなかったアホ・バカ方言の謎をこれでもかこれでもかと探求していった結果、気がつけば彼自身がいまここで作っているテレビ番組自体の面白さ=アホさの秘密を手にしていた。その意味では、彼自身がどこかでアホである。だから本書は感動的なのだ。関西にはバカ表現がないと信じていた著者が、ある日「バカモン」という日常的に使用されている関西弁を発見してしまうときの驚きと感動。それが本書全体を満たしている、アホが、自分がアホであることを知っていくという知の喜びである。私たちは身近なテレビについても、自分の地域文化についても、日本についても何も知らないアホであるらしい。だから知的探求へのきっかけは私たちの目の前に溢れている。ただ私たちはアホを許さない常識という曇りガラスのせいで、それに気づいていないだけなのだ。私は、本書にそう励まされたような気がした。

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