『精神分析臨床を生きる―対人関係学派からみた価値の問題―』サンドラ・ビューチュラー 著 川畑直人・鈴木健一 監訳 椙山彩子・ガヴィニオ重利子 訳(創元社)
「臨床への信念」
サンドラは、長い黒髪と大きな黒い瞳を持つ、身の丈150センチ足らずの小柄な女性だ。けれども、こぢんまりとした佇まいからは、地に足の着いた確固たる意気が伝わってくる。殊のほか印象的なのは、彼女が語る時の真剣な瞳と、穏やかに微笑む時の和らいだ瞳で、それは彼女の情熱と慈愛、そして誠実さと厳しさを物語っている。本書には、サンドラのふたつの眼差しが、随所に注がれている。
本書の原題はClinical Valuesで、副題をEmotions that guide psychoanalytic treatmentとする。日本語版のタイトルは、したがって相当な意訳だが、サンドラの寄って立つ学派と何よりも本書の意図を明瞭に汲んでいる。サンドラから直接に指導を受けた川畑・鈴木の両氏をはじめ翻訳陣の方々は、誠意の伝わる翻訳作業をしてくれた。
冒頭で強調されているように、「精神分析の治療に関する膨大な文献は、発想を豊かにすることよりも知的情報を与えることの方が多い。…知恵よりもむしろ説明の方が優先されている感じで、下手をすると知性は育まれても、気持ちや精神は犠牲になってしまう」。「無味乾燥な言語が頻繁に用いられる」。「心や魂には響かない」。「専門用語を使うと、私たちはぎこちなくなってしまう。…ある特殊な専門職の文化に属しているという自覚は得られるが、それ以外の人生のさまざまな経験に接触しなくなってしまう」。これだけ畳み掛けるように精神分析の専門書に異議を唱えているだけあって、本書の文章と内容は異彩を放っている。
サンドラが平易な日常語を旨とすることは、彼女の講義でも有名で、専門用語の咀嚼に躍起となりながらも、内心は辟易している多くの聴講生に、驚きと感銘を与えている。本書においても充分に発揮されている彼女のそうした特質は、無骨な分析用語や詩的すぎるファンシーな語句とは縁がない章立てを一瞥すれば、歴然としている。各章のタイトルは、好奇心・希望・親切・勇気・目的感覚・感情のバランス・喪失に耐える力・統合性・理論を生かす、となる。いずれも、臨床家として必要とされながら、公式の場所では書かれることも語られることも稀なテーマである。
いずれの職業(に限らず)集団にも言えることだが、特定集団の常識が世間では非常識であることは少なくない。分析業界も例外ではなく、土俵が患者さんとの密室空間であること、しかも守秘義務という厚いカーテンに覆われていることは、その傾向を募らせる。様々なタブーや掟、それらについて延々と続く論議は、業界外部の人間の理解を越える。たとえば、約束された時間や料金という枠組みを重視して、時間延長は一分も妥協しないとか、患者さんにコメントを求められても沈黙するとか、冷淡と思われかねない態度をとることを分析訓練生は推奨される節がある。患者さんの願望を易々と満たさないことによって、彼らが自分の(無意識の)願望に気づいていくことを促すという理論的整合性があることはある。そもそも、冷淡と思われたくないという治療者側の願望よりも患者さんの利益を優先することは、実際のところ、難儀この上ない。けれども、この「冷淡」は「剥奪」にすぎず、分析家は自らの掟を絶対視するあまり、患者さんをいっそう苦しめる医原病を招いてはいないか、という反省が分析家自身からなされて久しい。そして、それが内輪の派閥闘争の火種になったりするのが、フロイト以来の業界史の一側面である。
「精神分析とは何か」という問いを巡る絶え間ない自省と闘争の歴史は、「人間とは何か」を問う真摯な探究の表われである。けれども、この真摯さは、意固地さや盲目的信仰と紙一重になりやすい。アメリカで精神科医といえば精神分析家を意味したほどに分析が隆盛を極めていたのは昔話で、精神科医療のなかで分析がマイノリティであるという現実は、分析家が真摯な探究をするのに都合のいい状況とは言えない。難解な概念を弄する象牙の塔へ引き篭もったり、薬物治療に偏りがちな精神医療を闇雲に攻撃したり、自己防衛の方策は尽きない。あるいは、自虐に傾いて精神分析自体を攻撃することもありうる。視野広く現実を見据え、謙虚さを備え、防衛を自覚しつつ、なお自らの生業(なりわい)、つまりは生活の糧であるところの臨床を問い続けていくことは、至難の業ですらある。精神分析に限らず、特定の価値を真理として掲げることの不可能性が唱えられるなか、それでなくても密室のなかで孤立しがちな分析家にとって、燃え尽きる危険性はいつも目前にある。
簡潔に言うと、燃え尽きは、職業への信念の喪失に対する反応であると私は考えている。燃え尽きた分析家は、もはや自分の選んだ領域の持つ価値を信じることができない。燃え尽きの核心にある喪失は、積み重なったものであり、出世に対する期待の喪失、患者と収入を文字通り失うという喪失、メンタルヘルスケア業界をとりまく、やる気をなくさせるような雰囲気によって起こる自尊心の喪失、特定の患者の治療に対する希望の喪失、経済的な事情で患者をとめどなく受け入れなくてはならないという状況から起こる誠実さの喪失感覚などがある。もちろん、根底にある分析家個人の性格的問題も関係する。しかし、私たちの仕事の側面には、特にすべての喪失を沈黙のストイシズムをもって耐えるようにと迫られるところがあり、それが燃え尽きにつながる要因になりやすい面があると思う。
サンドラの言う信念 ( Faith ) という言葉は、臨床を重ねるごとに重さを増してくる。メンタルヘルス業界のなかですら存在する、精神分析についての偏見や誤解を声高に正すことは難しい。業界の常識に内在する深い人間洞察と独りよがりの非常識を弁別することは、ひとえに個々の分析家の感情的・知的統合力、つまりは人間性と器量に委ねられている。多くの分析家は、臨床での対人関係(自分と患者とのあいだ)で起きることに献身し、自問を続けるほかない。「治療とは本質的に生死に関わる苦闘である」とするサンドラの言葉は、大仰でもなければ、尊大でもない。精神分析臨床への信念を育み、維持するためにはどうしたらいいかを真剣に自問する分析家の誠実な覚悟である。
サンドラのふたつの瞳の共存は、厳しさが冷たさとは異なること、優しさが弱さや甘やかしとは異なることを体現している。その一端は、本書のなかで散見されるサリヴァンやエーリッヒ・フロムへの切れ味の鋭い批評と彼らの恩恵への感謝にも窺える。厳しさと優しさの共存が望まれるのは、分析家にかぎったことではない。それは人間としての軸が問われる事態なのだ。臨床家である自分は何者なのか、という基盤を蔑(ないがしろ)にした理論書が続出するなかで、『精神分析臨床を生きる―対人関係学派からみた価値の問題―』は、臨床家としての信念の結晶に触れられる貴重な一冊である。
2004年に出版された本書の精華は、分析界の栄誉であるグラディーヴァ賞を獲得した “Making A Difference In Patients' Lives: Emotional Experience In The Therapeutic Setting” ( Psychoanalysis In A New Key Book Series, 2008 ) へと引き継がれている。サンドラが執筆へと精力を注ぎ始めたことは、わたし個人にとっても、希望の贈り物である。