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『大人にはわからない日本文学史』高橋源一郎(岩波書店)

大人にはわからない日本文学史

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「「私」は小説のOS」

今日はクリスマスイブだ。日本はさぞかし賑やかなことだろう。フランスのクリスマスは家族が集まって過ごす日なので、丁度日本の大晦日のような雰囲気になる。美味しいものを食べて楽しむが、騒ぎはしない。その代わり、大晦日はドンチャン騒ぎのパーティとなる。日本と反対なのが面白い。

 今年の終わりに相応しいかどうかはわからないが、一応文学に携わる者として、高橋源一郎の面白い本を紹介したい。『大人にはわからない日本文学史』という、相変わらずの刺激的なタイトルだ。内容も負けていない。彼は常に私たちに新しい視点を提供してくれる。今回の基本は、日本近代文学樋口一葉の活躍した明治28年を軸にして「十年という時間で文学史を折りたたむと、一方は起源に達し、一方は完成に至ります。」というものだ。

 たった20年の間に日本の近代文学が完成したとすれば、それは奇跡と言う他ない。それを検証するために、高橋は三遊亭円朝の落語が口語であるために古くならないと考え、一葉の作品を新しく感じるのは、それが肉体に結びついているからだと言う。確かに人の肉体は昔から変わらない。例え平均寿命が延びたとしても、傷があれば痛いし、冷たい風が吹けば寒い。そういった感覚は時代を越えて共通のものだ。そこをベースとした文学は色褪せないのかもしれない。

 一葉から100年後の作家として綿谷りさを取り上げ、彼女の作品を分析する。そしてやはり見事に五感を使った作品である事を確認する。その理由を「『文学史』に促されてそうした」と述べる。またこれらの問題はやはり当然の帰結として、「私」の問題に辿り着く。近代文学においては「自我」を捉えるために「私小説」が発達したのだし、戦後の文学もその域を出てはいない。高橋はこの「私」を基盤とした文学が1990年代で終わりを告げたのではないかと考えている。

 彼はそれを「私」というOSが変わりつつあると言う。そう、ウィンドウズやリナックス等のOSである。この辺りが高橋の真骨頂だが、非常にわかりやすい考えだ。パソコンで仕事をしていても、普段はOSを意識しない。だが、ちがうOSを使ってみると(例えばMacの)その世界の違いに驚く。もし小説のOSが変わりつつあるのだとしたら、「もっとも若い小説家たちは、ある意味でこの百年で初めて、口語に向かい合っているのです」というのも、うなづける。だが、果たしてどのようなOSが登場しているのだろうか。

 手馴れた文学者が、若い文学者たちの作品を解説してくれるのは、楽しいものだ。「大人にはわからない」というのは、言い換えると「常識に囚われた似非大人には、真実が見えてこない」ということであろう。『星の王子様』の冒頭に出てくる「象を飲み込んだうわばみ」の話は有名だが、これが帽子にしか見えない人には、物の本質は見えてこないのだろう。新年を間近に控え、心を新たにして、「私」の姿を見極めていきたいものだ。


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