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『Still Practicing : The Heartaches and Joys of a Clinical Career (Psychoanalysis in a New Key)』Sandra Buechler(Routledge )

Still Practicing : The Heartaches and Joys of a Clinical Career

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精神分析家の二つのS

 「先生のしている治療法は50年後も存在していると思いますか?」どうして、今、この質問を?表情や口調には糾弾や嫌味もない。顎をやや上げて視線を下げる、かつての彼に時折見られた不遜なジェスチャーもない。けれども、彼のことだから、「素朴な疑問」であるはずはなくて、カモフラージュされた戦線布告なのだろうか?わたしの返答に何を期待しているのだろう?質問の直前には、何が起きていただろうか?攻撃と取ってしまうのは、わたし自身の被害者意識?説明義務を怠っているわたしへの正当な抗議?そもそも、わたしのしている治療法って何?


 精神分析臨床には、不断の自己内省が要請される。業界の関心は、逆転移や治療関係の現実(空想・無意識ではないの意)へ向けられて久しく、自己内省はとぐろを巻きかねない。自意識過剰なナルシシズム紙一重である。だが、この紙一重を維持することの陥穽に真摯に対面し、困難を打破していく勇気を率直に示す分析家は滅多にいない。S・ブーチュラーこそは、この快挙を続投する稀有な専門家である。

 『山月記』ではないが、「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」は分析家の陥穽の筆頭にあって、山に籠もる李徴に対して、分析家は診察室に籠もる虎になりやすい。苦労の末に修業証書を得ても、虎になるまでもなくバーンアウトして、早期退職・転職していく者の数は少なくない。研修生を不要に傷つけ、他学派を攻撃することでプライドを保つナルシシスティックな高名分析家も珍しくない。業界の不健康を物語る実情の一端を、ブーチュラーは誇張なく描写する。特に、研修期の至難と生涯にわたるその影響には、深い共感と無念を表し、指導者側への警鐘に余念がない。ただし、同業者の誰もが目撃または体験していながら、声高には語らない事実を告発することが著者の意図ではない。

 明白なバーンアウトの裾野には、諸々の倦怠やマンネリズムがあり、慢性的鬱状態が控えている。精神分析は絶滅しつつあると嘆く声は大きくなり、保険制度の理不尽さの愚痴をこぼし、古き良き時代を偲ぶセンチメンタリズムも絶えない。研究所での政治や舞台裏を見据え、世紀を跨いだ精神分析の盛衰を生き抜いてきた著者にとって、充分に理解できる事情だ。それでも、ブーチュラーは敢えて言う。時代や精神分析の運命のせいにする方が、自らの仕事に熱意を覚えられなくなった自分を直視するよりも容易い、と。そのうえで、精神分析家という生業に胚胎する喪失の堆積を指摘し、喪失に起因するShame(羞恥)とSorrow(哀しみ)に着眼する。バーンアウトや懐古趣味、病的自己愛を、羞恥と哀しみのひとつの表れと見て、論を進めていく。著者も言うように、二つのS(Shame&Sorrow)は本書の主人公なのだ。

 精神分析臨床とは、基本的に水商売である。診察室を訪れた人々は、やがて去っていく。去り方は色々で、唐突なこともあれば、予告つきの長いお別れもある。訪問が1ヶ月足らずのこともあれば、10年以上にわたることもある。死別も含め、長く臨床すればするほど、別れは多くなる。勿論、シェフも教師も医者も美容師も、世の中の商売は多くが水商売である。分析に限ったことではない。けれども、分析家には他にない特異さがある。

 患者は、仕事、家庭、夢、希望、絶望、慟哭、悲哀、喜びといった心の内を、密室で語る。機密性(守秘義務要件)は高く、治療の場以外での社交は御法度と教育される。治療家も患者も、約束された時間と場所と料金という枠のなかで、出逢い、別れる。毎回の面接は、別れのミニチュアで、時計の針に合わせて、分析家は小さな別れを日に何度も繰り返す。どのような別れであっても、待合室にいる方を招き入れるまでには切り替えねばならず、その変わり身がどんなに見事であろうとも、証人もいなければ観客もいない。治療者の主観的意見や事情を患者に伝えることは、自己開示と呼ばれて議論の的ともなっているが、心の内を吐露することは、基本的には反治療的である。したがって、胸の内に埋蔵される想いは、誰と語り合うこともなく沈殿し、大小の別れもまた日々堆積していく。治療が「成功」終結であってすら、自責、慙愧、彼らへの懸念や追慕が残る。幸にも不幸にも、外科手術のような明暗ある結果は出ない。いかなる結果であろうとも、治療者としての自分の限界に向き合わされる。何よりも応えるのは、自分の限界の意味することが、技術や知識の不足のみならず、結局は、自分の人格の未熟・欠陥、人間性そのものに至らざるを得ないことだ。自分の器の分しか他人を理解することはできないことを痛感することは、羞恥であり、苦い怒りと哀しみの混交を残す。

 ブーチュラーは、こうした日常臨床における喪失、専門家ですら何がしかの方法で否認しがちな痛手の水路を、具体例や架空の事例を交えて、リアルかつ綿密に論じている。わたしが個人的に感銘を受けたのは、著者が本書の随所で引退への不安と覚悟を表明していることだ。引退とは、別れの堆積の果てに迎える大きな喪失である。

…I have a personal goal. It helps keep me going. When I end my practice, I want to feel I can do it with grace. I want to end in style. My style. This means, to me, that I must be good at facing failure and loss. Whenever I stop practicing, I will have failed some people, to some extent. And by the end I will lose them all. Before I face these final moments, I want to become a really good loser. …
 

 本書は、理論書でもなければ、症例集でもない。つれづれなるエッセイとも異なる。けれども、それらの要素がすべて凝縮されていて、知情意に響く読み心地を与えてくれる。著者の執筆すべてに一貫している臨床への信念と穏やかなユーモアという個性も変わらない。未だ臨床する・習う(Still Practicing)著者の意思は、謙虚でありつつも気概に満ちている。わたしの治療法は50年後もあるのだろうか?その質問の矢面に立ち、好奇心と自負に勝るとも劣らない恥と怯えを覚える時、本書は、「それでも臨床していく」勇気を与えてくれる。


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