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プロの読み手による書評ブログ

『夜のミッキーマウス』谷川俊太郎(新潮社)

夜のミッキーマウス

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「おとなになってから出会える詩もある」

またしても谷川俊太郎さんの詩だ。


私は谷川さんの詩がよほど好きなのだ。

谷川さんにはまだお会いしたことはないけど

こんな風なラブレターをあちこちに書いていれば、

きっといつか逢えるだろう。

そしたら、詩人と無縁の騒々しい生業だけれど

そのときばかりは神サマに許しを乞おう。

わたくしも詩人といっしょに詩人になる。

そしたら全うな言葉もきっと蘇ってくる。

仕事や生活に疲労した夜には、詩集。

ふと手にとってしまうのだ、

詩人と語り合うような気持ちになって。

この詩集もその中のひとつ。

「同じ土壌から匂いも色も形も違ういろんな花が咲くように、

作者にも予想がつかないしかたで詩は生まれる」

だから「野花のように」詩をそこに

存在させたいだけ、と谷川さんは言う。

そして、確かに野花のような29の作品は、

むかしむかし、現代国語の教科書で出会った

いくつかの作品の香りを残してる。

でも、今さらながら谷川さんを凄いと思うのは、

私がおとなになるまで待っててくれたと

わかるから。

収録されているそれらの詩は、

きっと10年前の私には、こういう風には伝わらなかった。

20年前なら多分、全く別の読みをしていたはずだ。

詩は谷川さんが言うように、ただそこに存在する。

だから、何かを意図して誕生したのではないのだから、

読み手もまた、年齢や経験を積み重ねながら、

新しい意味を添えていくことができる。詩は、

読み返した回数だけ観ることができる絵だ。

まるで風景みたい。読みなれたページに

発見があり、慰めてくれる

さりげなくステキな作品ばかりだが、好きなのは

筋ジス青年の性を彷彿させる、「なんでもおまんこ」

この歓びも永遠の中の瞬間、「あのひとが来て」

文明に生きる乾いた自分、「いまぼくに」

寸劇みたいな「不機嫌な妻」「有機物としてのフェミイスト」

「スイッチが入らない知識人」「愛をおろそかにしてきた会計士」

ひらがなばかりの「よげん」「ちじょう」

「ふえ」からすこしだけいんよう。

・・・

はらからのこえをかりことばをかりた

つぶやきにひそむしらべは

もつれあうなさけをきりさり

ゆりかごをはかにかさねて

かぜのようひとびとのこころさわがせ

ひとすじによぞらにきえる

そのとがにきづくことなく

・・・

そして、今日は詩集最後に収録されている

「五行」の次の二連が胸に沁みる。

昨日を忘れることが今日を新しくするとしても

忘れられた昨日は記憶に刻まれた生傷

私には癒しであるものが誰かには耐えない鈍痛

だがその誰かも私に思いださせてくれない

私の犯したのがどんな罪かを

その人の悲しみをどこまで知ることが出来るだろう

目をそらしても耳をふさいでもその人の悲しみから逃げられないが

それが自分の悲しみではないという事実からもまた逃げることが出来ない

心身の洞穴にひそむ決して馴らすことのできない野生の生き物

悲しみは涙以外の言葉を拒んでうずくまり こっちを窺っている


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